羅府コラムニスト小川弘子さんの音楽エッセー

   戦争を知らない世代で、両親からも祖父母からも戦時中の話などを聞いた経験が皆無に近い私でも、子どもの頃から、毎年この時期になると、戦争のことを考えさせられます。特に、音楽を生業とする者としては、音楽と戦争の関わり方や音楽が戦争から受けた影響などを考えるのです。

 「音楽は軍需品なり」というフレーズは、内閣情報局の平出英夫(ひらいで・ひでお)海軍大佐が1941(昭和16)年7月28日に行った「高度国防国家建設と音楽の効用」と題する講演の中での発言が基になっています。その意味するところは、高度な音楽教育を受けた人は、さまざまな音を聞き分けることで、敵の動きを素早く察知し味方を有利に導くことができる、だから音楽は軍需品だ、というものです。太平洋戦争勃発はこの年の12月8日(米時間7日)なので、この講演は、日米開戦以前ということになります。

 同じ年の9月には「音楽は軍需品なり」との建前から音楽挺身隊が、11月には音楽家の一元化組織として日本音楽文化協会が発足しました。挺身隊の隊長には、「からたちの花」「この道」「赤とんぼ」「待ちぼうけ」などの作曲者である山田耕筰が就任し、終戦まで、各地に音楽文化協会員を派遣し、音楽によって民心を鼓舞し続けました。多数の軍歌が作られたのも、このスローガンによるものです。当時の作詞家や作曲家、歌手は、自分の意思と相いれないことがあっても、時代の趨勢(すうせい)に逆らうことは難しかったのでしょう。

 1926(大正15)年の創設から、民間の音楽団体であった新交響楽団(NHK交響楽団の前身)は、つながりの強かった日本放送協会(NHKの前身)との共同設立で、開戦の翌年に、財団法人日本交響楽団として新たなスタートを切りました。税制面で優遇される立場である財団法人となったからには、公益性が非常に大切であり、そのために戦局がどんなに厳しくなっても、兵士や労働者、銃後を守る女性や子どもたちを含む全ての国民を、演奏によって慰め励まさなければなりません。その上、オーケストラの音楽がラジオで生放送されていることを敵国が知ると、まだまだ日本は余裕があると思うに違いない、そのようなプロパガンダのためにも、終戦のわずか2カ月前までコンサートを行っていたのです。「音楽は軍需品なり」とは、まさにこのことかと思わずにいられません。

 終戦の年の6月14日に日比谷公会堂で行われたコンサートで演奏されたのは、ベートーヴェン作曲交響曲第9番、いわゆる「第九」でした。その第4楽章で、「歓喜の歌」が4人の独唱者と合唱団によって高らかに歌われるこの曲を、沖縄戦のさなかで、日本各地が空襲で焼かれる中、そしてドイツも降伏した後に、焼け野原の東京で演奏していたとは、想像を絶すると言っては言い過ぎでしょうか。

 一方で、「音楽は軍需品なり」という言葉により、音楽家たちは戦時中でも仕事を続けられ、生き延びられた、という一面もあります。音楽は単なる娯楽のためではなく、必需品であると位置付けられたからです。この言葉の旗振り役となったことで戦後は責任を厳しく追及された山田耕筰ですが、その山田に感謝すると声楽家の畑中良輔は話しているのです。

 世界中で戦争が起きるたびに、音楽家も政治と時代に巻き込まれてしまいます。そのような事態に遭わずにこられたことは、大いなる幸運であることに改めて思い至ります。

おがわ・ひろこ


神戸大学教育学部音楽科卒、同大学院修士課程修了。声楽、器楽、合唱、バレエなどのピアノ伴奏者、および合唱指導者。現在、南加日系合唱連盟会長。ミュージック・ペンクラブ・ジャパン会員。

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