幕末から明治、鎖国から開国、士農工商の身分固定社会から四民平等の社会へ。良きも悪しきも国中が大変動を経験した明治維新、黒船により太平の夢を破ったアメリカは、夢と希望の憧れの地として日本の若者の冒険心を掻き立てた。日本の各地から志を抱いた青年がさまざまな方法で万里の波濤を乗り越え、太平洋を横断しアメリカにたどり着いた。その中から一人二人と成功者が出るとその成功談は郷里や近辺に広がり、さらなる移民者が続いた。日本の移民史は多くがこのような経緯を辿っている。
 今年創立100周年を迎える南加愛媛県人会も、何人かの先駆者の苦労が後続者を生み出した。県移民史上特筆すべき二つの出来事。一つは打瀬船による若者の密航、もう一つは愛媛大学の講堂建設資金の募金である。どの県にもさまざまな移民史が語り継がれているが、憧れのアメリカを目指した冒険・苦心談と故郷に対する寄付の心は同じようにそれぞれの移民史を彩っている。
 初期移民の多くは、背後は山、前は海で、漁業を主としながらも村上水軍・河野水軍・塩飽水軍など海賊の伝統も持つ冒険心に富んだ南予出身者に多い。75周年記念誌によると、明治36年16人の若者が50フィートの打瀬船で出航し、嵐に遭遇しながらも59日目に米国太平洋岸のアレナ海岸に漂着した。無念にも二日目には全員が捕まって強制送還されたが、後にはほとんどがさまざまな経過を辿ってアメリカ移住を果した。
 昭和25年、戦後苦境にあえぐ愛媛大学は講堂建設資金をアメリカの同胞・愛媛県人に依頼した。強制収容所から出て生活基盤の整わない中、手弁当で駆け回り1年半後に190万円の資金を集め寄付した。苦しさに郷土愛が勝(まさ)ったのである。愛媛大学にはその講堂が今も残っている。
 8月1日の記念式典には、県知事はじめ100人を越える人たちが郷里から参加する。「わしら小さな県人会じゃけえ100周年はやらんでもええ」という声もあったが、盛大な記念式典が挙行される。今まで脈々と受け継いできた愛媛県人会を後世に引き継げる古参会員は如何ばかりの感慨に浸ることであろうか。【若尾龍彦】

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