人は一人で生まれて、一人死ぬというが、どうも何か違うといつも感じる。人は生まれるとき、一人ではなく誰かの力を借りて生まれる。生まれ出たいという子供を感じて母親が力を貸す。人は生まれるときから一人ではない。母親だけでなく、助産師や医師の力に支えられて生を受ける。最近は、帝王切開で生まれる子が多くなっていると聞く。ますます、一人で生まれるということが少なくなる。
人が亡くなるときも、誰かを待って声をかけられ、手を取ってもらって息を引き取るのは、一人で逝くとは違う気がする。亡くなってから長いこと放置されて発見が遅れた高齢者の死が報道されると、近隣との接触がなく、食べ物もなくなっていたというように生前の孤独が浮き彫りにされる。こういうケースは、独死といっていいと思うし、いわゆる孤独死の部類といっていいと思う。
先日あった葬儀で、故人の妹さんが「姉は亡くなって二週間位して発見されましたが、孤独死だとは思っていません。イベントの出し物を頼まれて、準備をしていました。80歳でも現役で新しいことに取り組んでいた、そういうときに急な病で亡くなった。亡くなるそのときまで現役だった、それは孤独死ではないと思っています。そして、発見が遅れたことで、遺体をお見せできないということも幸いでした。生前のきれいで元気な姿で記憶されるという幸運に恵まれました」と、あいさつされた。生前の故人を知るものとしては、納得して感心した。何度電話しても連絡が取れない、と在日本の身内や知り合いが心配し家を訪ねた。結局、ポリスが入って発見されたが、放って置かれたのではない。
人は、文字のとおり生まれるときから死んでいくときまで、人に支えられ気持ちをかけられていくのではないかと思う。ただ、それに甘えない覚悟は必要だろう。何かの事情でそうはいかないこともある。独りである、独り死ぬという覚悟さえあれば、何事も幸せだと享受できる気がする。
バレンタインデーも近い。寄り添える相手がいるときは、寄り添い支えあう。いつまでも続けられるわけではない。【大石克子】