監督が代わったとたんに、今までの不振がうそのように打ち始めた大リーグ・アスレチックスの松井秀樹選手。なんだか、学級担任が代わったとたんに勉強しだした小学生にも似て、ほほえましい。
 その大リーグなどのスポーツ観戦で、試合開始前にファンがみな起立して国旗・国歌に敬意を表するのは、アメリカではあたり前の光景。ごく一般的な儀礼的な所作といえるから、起立しなかったからといって、とがめられたり球場からつまみ出されたりすることはない。それでも文化的背景の異なる人々がみな、躊躇なく起立して「儀式」に参加する。
 5月、6月は卒業シーズンでもある。幼稚園から大学まで各学校で卒業式が行われ、「威風堂々」の曲に合わせて入場する卒業生の晴れがましい笑顔が美しい。もちろん卒業式会場でも国旗・国歌に敬愛を表明する儀式はごく自然に遂行される。起立することに何の迷いも躊躇も反発もない。
 同じ卒業式でも、日本では事情が少し違うようだ。国旗を掲揚し「国歌斉唱」の際、毎年のように起立を拒む教師がいて、子どもたちの前途を祝う卒業式を混乱させている。
 卒業式で起立しないのは「思想や良心の自由」であり、憲法でも保障されている—というのが不起立教師の言い分。戦後の民主主義を、なんでも個人の自由とはき違えた人たちの亡霊が依然としてはびこっているのだろうか。
 小学校の音楽教師が卒業式でピアノ伴奏を拒否した事例や、不起立教師の定年後の再雇用申請を却下した事例で最高裁は、「公立学校での国歌斉唱」は合憲との判断を示した。「卒業式などの式典で国歌を斉唱するのは慣例的、儀礼的な性質のもので、個人の歴史観や世界観を否定するものではない」と指摘。「全体の奉仕者として公務員はその義務や役割を認識し、職務命令に従うべき地位にある」と明解だ。
 自分の国の国旗・国歌を否定するような自虐史観は、世界的に見ると天然記念物的な存在。自らの信条はそれなりの場所で主張し、野球観戦や祝いの式典では、そんなに頑なになる必要はないのではなかろうか。【石原 嵩】

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