時々ではあるが日本の友人とEメールのやり取りをしている。「君の子がもう高校生か」とか「今年の同窓会はどうだった」とか…。以前は手紙であったが、あまりの乱筆でいつもすまない気持ちになっていたものだ。
 新聞社に勤めていると、いろいろな原稿を目にする。タイプされたものは、そのデータをEメールで送り直してもらう。これはいい。
 手書きのものは大変だ。なんとか判読して掲載したら「なんてことしてくれる。あの字は○○なんだぞ」と、おしかりを受けたりする。結構みなさん、家庭ではコンピュータなど使用されているようだし、簡単なワープロもできるのになぜ手書きなんだろう。
 ずっと昔読んだことがあるが、手書き原稿の大切さを書いてあったように思う。親書や歌の会などで、相手がその人のことをよく知っているならば、その文脈・字体で、書かれていない「ライン」を読むこともできるかも。たぶん「自分はこんなに字を大切にしているのだわ」ということか。
 僕ならば、乱筆をよそ様に読ませるという図々しさはない。自分用、身内、同好の士ならば良い。皆が自分のまずい字、拙文を認めているから。よそに送る場合ワープロを使用し、そのデータを送る。
 理由は簡単。一つは手書きの場合誰かがその文をタイプし直さなければならない。二度手間だ。二つ目、タイプ中は字を堪能したり文章に感心する暇はないから、せっかくの「手書き」もないのと同じ。その人は僕の字を読むことで胃潰瘍になるやもしれぬ。三つに、自分が変換し損なったものなら諦めもつくが、他の人が変換ミスした場合、やはりいやなものであろう(僕はあまり気にならないが)。
 とはいえ、「しかしながら」である。原稿用紙をすべる万年筆の感触がたまらない、というのも分からないでもない。高校のころ友人らと小冊子をつくり、万年筆で書いていたから。でも、あの頃は単にワープロがなかっただけの話。世の中にこの1冊しか存在しない手作り短編集、いや、無くしてしまったからもう存在しないのだ。残念である。【徳永憲治】

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