年初にゴードン平林さんが亡くなられ、大戦時にワシントン大の学生だった平林さんが外出禁止令の違憲性を主張して出頭し法廷で闘ったことが、再び多くのメディアで紹介された。
私が初めてお会いしたのは1988年、日系市民協会全米大会出席のため平林さんがシアトルを訪れたときだ。約12万の日本人・日系市民が米国西海岸の住居を立ち退かされたとき、違憲を主張してそれぞれの地で抗議した3人の二世。
その1人に話が聞けるとあって、会う前から緊張していた。意志の人、行動の人としての強靭さを想像しつつ。しかしインタビューでは平林さんは、自分は決してひとりではなかったと何度か繰り返した。
「あの当時、日系のコミュニティーは何も出来なかった。私を支えてくれたのは白人のグループでした」。
平林さんの父は、無教会派のキリスト者・井口喜源治が長野に開いた研成義塾に学び、研成義塾の他の青年たちと共に農業移民としてシアトルに移住。「穂高倶楽部」を結成して集った。その信教環境に生まれ育った平林さんは長じて、宗旨の近く感じられたキリスト教フレンド派(クエーカー)に親しんでいた。
法廷の、また獄中の平林さんの支援を続けたのもこのグループの人々で、後に平林さんはクエーカーの女性と結婚している。
ちなみに、この妻エスターさんの父フロイド・シュモーさんは戦後、救援物資の山羊などを運んで日本に何度も往復した人。ひと握りにせよ当時、平林さんを信じて支援する人々が居たのだ。
敗訴に終わった主張が80年代に再び法廷で審議される運びになったのもまた、「幸運なことでした」。ワシントンDCで古い公文書を調査中のアイコ・ハージグさんが重要資料を発見。知らせを受けたピーター・アイアンさん(後にUCサンディエゴ教授)が平林さんに、「勝てると思う。裁判を再開しますか」と電話して来たという。
シアトルの上訴審裁判所は87年、日系人外出禁止令も立ち退き命令も根拠が無かったとして、平林さんの有罪を覆した。日系史に刻まれる勝訴は、こうして勝ち取られた。【楠瀬明子】