日本で出版物に目を通していると、日々、新しい言葉が登場するのを感じる。
 「就活(就職活動)」に続く「婚活(結婚活動)」、「終活(人生を終える準備)」など一連の造語の登場には慣れた。ところがこれとは違い、これまで使っていた言葉で十分表現できるはずなのに新しい言葉で登場するようになると、何かしら抵抗を覚えてしまう。
 このところひっかかっているのは、2例あった。
 まず「真逆(まぎゃく)」。これが「正反対」と同義で使われ始めた。
 もう一つは、「心が折れる」という表現。悲しみ・悩みなどで辛く思う状態は「胸が痛む」とか「心を痛める」と言ってきたのだが、近頃のインターネットサイトの投稿に「心が折れる」との表現が目立つようになった。
 いずれの言葉・表現も、単刀直入というか、視覚的というか。まだ一般の文章中に市民権を得るほどではないが、いずれ多用され、数年後には辞書にも登場しかねない勢いで、少々苦い思いで眺めていた。
 ところが今月初め実家に帰省したところ、叔父から母あてに一通の手紙が届いた。昨年死去した叔母の法要についての報告で、私にも見せてくれたのだが、見慣れない言葉がいくつかあり戸惑ってしまった。
 文中のそれら「荊妻(けいさい)=自分の妻の謙称」「荏苒(じんぜん)=歳月の次第に進みゆくさま」「案下(あんか)=机下」という言葉は、広辞苑を引いて初めて意味を知った。これらは、PCのワードプロセッサーに変換語として入ってもいた。
 どうやら、叔父世代にとっては常識の日本語を、私は知らないままでいたらしい。いや多分、私だけでなく、私と同じか若い世代の多くは知らない言葉だと思われる。使われる言葉が時代と共に変化すると知ってはいたけれど、言葉はこんな風にして忘れ去られ、使われなくなるのだと実感した。
 消えていく言葉があれば、他方で新しい言葉が次々と登場するのも決して不思議でない。
 これからは、「真逆」や「心が折れる」にも、あまりしかめ面をしないでいようと思わされたことだった。【楠瀬明子】

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