日本語の話しことばの移り変わりは、大勢の人が使い定着したものは存在を認めざるを得ないが、自分の心ではよしとしないものもある。自分も特定の時代の産物でありそのゆえの反応だろうか。
 「××じゃないですか」の言い回し、近年若年層が多用し始めた表現らしいが、筋違いの押し付けがましい感じだった。
 ××と思うのです、××なんですよ、というなら自身の考えを述べているので取り敢えずはそういう考えか、ああそうと聞ける。
 公知や歴史的事実を「じゃないですか」というなら良いが自分だけのことなどを私って内気じゃないですか、などと勝手に振られても素直にハイとは言えない。(ふざけるな、知るか)と反応する。この言い回しが人々の不評により衰えたのならめでたい。
 味へのこだわり、素材へのこだわりを持つ一流料理人、などの「こだわり」もすっかり肯定的な言葉として定着したようだ。だが自分の言語感ではすっきりしない。
 こだわるの意味は気にする、ひっかかる、とらわれるなどで、小さなことに必要以上に執着していて、もともとは良くない行為、否定的な言葉だった。そんなつまらんことにくよくよこだわるな、いつまでも失敗にこだわらず前に進め、こういう具合に使われる言葉だった。いや今もそうだ。
 こだわりを捨てろ、とは言うがこだわりを持て、とは言わない。いつからか変質してあたかも良いことに安易に使われるようになったが自分は使わない。
 こだわりの料理人などと聞けば暗い顔で下を向き、うじうじとこだわって決断力のない料理人が浮かぶ。それがいつの間にかこだわりの美学みたいに肯定的な使われ方がすっかり流行ってしまい何か変だ。
 「やばい」という昔のやくざ隠語が最近若者たちに昔と逆の意味で使われるようになっているが、そういう流行語はどうでもいい。いずれ泡のように消える。しかしこだわりは由緒?ある日本語だからそう簡単に浮世の移り変わりに流されて欲しくない。
 自分の語感を大事に生きるので古くても頑固でもいい、自分がおかしいと思う言葉は使わない主義である。【半田俊夫】

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