このタイトル、昨年3月の東日本大震災の後に、特に目にする機会が多くなったように思う。
ただ、災害がなくても人は人とつながっていて、大切だと気がつかなかっただけではないだろうか。あまりに悲惨過ぎて、一人では耐えられない、立ち向かえないところで誰かを必要とした。
それが、心の奥底にあった「つながる」を求め、表面化したのではなかったか。
人はどんな形であれ、つながっているものだと思う。例えば、食事を届けるボランティアをしていて、ただ届けるだけ、しかも週に一度だけなのに、何かで何回か顔を合わせなかった後に届けたとき、「また届けに来てくれてありがとう!」と言われて、待ってもらっていたことに感謝。何でもない行為でつながっていると知らされる。
何十年前の知り合いで、しばらく疎遠になっていた人と何かのきっかけで再会する。そこから、さらに共通の知り合いとも旧交を暖めて、と時々お互いが思い出していたことが分かると、細い糸でつながっていたと思う。
Eメールや携帯メールで頻繁にやり取りしていても、つながっていると感じられない若者たち。
年に一度にも満たない連絡で、つながっていられることがあることを彼らは理解できないだろう。頻繁だと考える余裕がないまま返事を送信することになる。考えることを怠って流された関係には、つながる感情は生まれないだろう。
実は、先週日本から帰った。滞在中に思いがけなく懐かしい面々に会えた。
10年ぶり20年ぶり、しかし皆ほとんど変化なく、隔たっていた期間はすぐに取り戻せた。また、しばらくの間遠のくだろうが、何かの時にはすぐにつながれる、そんな気がした。
しかも、驚くことに、岩手の田舎の知人が話題にしたのが、LAでの知り合いの名前。郷里とか学校とか、全く無関係の二人がどうして? どこで誰がどうつながっているのか、世の中狭過ぎる。
災害時だけでなく、平常時のつながりが、何かのときに必ず生きてくるものだと思う。学校、職場、地域の中でつながっていけたら、それは社会の原動力になることだろう。【大石克子】