年が明けるとすぐに、待ちに待った還暦。MTAバスはまだでも、映画はシニア料金で見られる。早くこいこいお正月ではなく、誕生日。いつも誕生日はうれしいが、今回は指折り数えて待っている。シニアは55歳からだったり、60、62、65とまちまちだが、60は還暦でめでたい年であり、ここからでいいと思っている。
高齢者施設で働いていた若い頃、そこの入居者全員が師だった。58歳の入居者が最年少だったが、一番重度で植物状態だった。その人も師か、と問われるかもしれないが、そのとおり。根気よく語りかけることの重要性を教えられた。今でも、高齢者からは教えられることばかりだが、当時、年齢を重ねるってすばらしい、こんな年のとり方がしたいと思ってみていた。その憧れの年齢に近づいたうれしさの半面、その手本となるものを持ち合わせていない現実にうろたえている自分がいる。
小東京の交番に立ち寄る、日本からの60代女性の怖いもの知らずの無鉄砲ぶり、分別のなさを見せ付けられるにつけ、自分もこの人たちと同年代なのだと、わが振りを思わずにはいられない。10代20代なら、まだ分からないのだなとか、若さゆえの無鉄砲かとか、若いからお金もないんだなとか納得できる。チャレンジするのに年齢はないかもしれないが、そういう志を持っているのとは違うように見受けられた。仕事をしていた人が定年を迎えて自由を謳歌するのはいい。もう少し考えた行動を、というのも正直な気持ちだ。
あの尊敬していた60以上は、どこへ行ったのかと思わずにはいられない。若いことがよくて、大人になることを猶予した結果が成熟年齢を引き上げたのか。
思考形態は、速さを要求されるメールやTXTに押され、ゆっくりじっくりから遠くなっているように思う。年とともに動きもゆっくりになる。打つのではなく、一文字一文字書くことをすると考えや言葉選びが念入りになるように思う。頭の回転が遅いといわれてもいい。後進に見られてもいい後姿を心がけようと思う。みなさん、よいお年を!【大石克子】