エジプト気球墜落事故、カンボジア強盗銃撃事件、グアム無差別殺傷事件、アルジェリア人質事件、吉祥寺刺殺事件など、ここのところ、国内外で日本人が事件や事故に巻き込まれ犠牲になる痛ましいニュースが続いた。志半ばにして犠牲となった人や、突然愛する人を失い、途方に暮れる家族の無念な気持ちを思うと、胸が引き裂かれる思いがする。
 しかし、それら事件事故を報じる日本語ニュースにたびたび使われる言葉に対し、大きな違和感を覚える。それは、「安全」という言葉。「安全だと聞いて安心していたのに」「安全な地域で発生した残虐な事件」「崩れた安全神話」―などと書かれた記事を目にするたび、「安全」とは何なのか考えさせられる。
 この世の中、絶対に保障された安全などどこにも存在しないことは過去を見ても明らかだ。今までに大きな事件や事故が起っていないのは、決して「安全だから」ではなく、「今のところ大きな惨事になっていない」というだけ。
 それは、起り得る危険を予測し対策を講じたり、過去の事件や事故から学び、危機管理を高めたりしているためかもしれない。しかし、それでも「今まで安全だった=これからもずっと安全」とはならない。
 アメリカ同時多発テロや東日本大震災のように、誰も予測しなかった惨事はいつでも起る可能性がある。9・11以来、米国はもとより世界中のセキュリティー基準と、テロリストに対する認識が大きく変わった。3・11以来、原子炉の必要性を疑問視する意見が高まった。われわれは、過去の惨事から学び、それを教訓として将来に生かしてきている。しかしやはりそれでも、今後一生、安全であり続ける保障にはならない。
 「明日死ぬかもしれない」「この飛行機が墜落するかもしれない」などと、毎日おびえながら生活すべきとまでは言わないが、存在しない「安全」という言葉の乱用は、多くの人に誤解を与えるだけでなく、人々の自分の身を守るという危機意識を弱めてしまっているように思う。【中村良子】

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