前に「者」を例に翻訳が難しい日本語独特の陰影を持つ表現に触れたが、今回は別の例で日本語がいかに表現力豊かな言語かを書きたい。
例1「しちゃった」。漫画の例:会社の上司が若手社員にどうせ来るまいと思い「正月に遊びに来たまえ」とお愛想を言ったら、元旦に若手が妻子連れ4人で本当に押しかけて来てしまった。玄関で上司は「本当に来ちゃったのね」、若手も赤面しつつも「ハイ来ちゃいました」。
また先日の日本の新聞の見出しの例だが「滞納で差し押さえたお金、返しちゃった税務署」というのがあった。税務署の怠慢な失策を皮肉をこめて叱っている。
この「しちゃった」は予期せぬことが起った時などの意外性の驚きや、失望、喜び、照れ、皮肉、滑稽などいろいろな響きを一言で醸し出す。右記の漫画の例で来ちゃったを英語でyou cameと言っただけではこの味は出ない。来ちゃったは来たの活用だがこの種の動詞変化は英語や西欧語には無い。
試験に「落ちちゃった」は、単に客観的にいう「落ちた」とは感情が違う。振られちゃった、儲かっちゃった、など独特の色合いは英語の動詞だけでは表わせない。日本人は、込めたい微妙な感情を「ちゃった」という活用形を用いて瞬時に表現している。
例2「しやがった」。逃げやがった、言いやがったなどの「やがった」も接辞語として動詞に付いて蔑み、怒りなどの感情を表現する。単にrun away や saidと言ってもこの「やがった」のアヤは出ないのだ。
日本語にはこれら微妙な色合いを的確に出す表現が動詞だけでなく名詞や助詞にも無数にあり、これらは西洋言語では翻訳不可能なものだ。
名詞の例でいえば月はムーンでよい。しかし日本人独特の感情が入った「お月さん」は単にムーンでは駄目だ。だが英語ではムーンしか無く、お月さんは無い。お巡りさん、お兄さん然り、お嫁さんも英語の単なるブライドでは気持ちが出ず表現できないのだ。
日本語とは精神や情緒と結びつきいかに細やかで多様で的確な表現を持つ言語であることか。まことに表現力に優れて味わい深い文化だと思う。【半田俊夫】