「この男、ちょっと知っているんだよ」
 新聞を読んでいた友人のRさんが紙面から顔をあげてボソッとつぶやいた。
 浮かない顔をしているので訳をたずねると、一週間ほど前に同じ男の記事がトリビューン紙の一面に見出しが出て、中ほどには1ページを割いて大きな記事が出ていたという。
 その男性M氏は目が不自由で、いつもRさんが行く理髪店に盲導犬を連れてきて座っているという。
 記事によると彼は1991年に湾岸戦争に出兵し、道に埋められていた地雷が爆発して視力を失ったものの生還することができたが、5人の戦友は戦死したという。
 その記事を読んだRさんが2日前に理髪店に行くと件のM氏がいたので「新聞記事を読みましたよ。とても良い記事でしたね」と話しかけると、見えない目を向けて「ありがとう」と言ったそうだ。
 ところが、今日の新聞にはその記事が不正確であったという訂正とお詫びが掲載されていた。
 後日の調査によるとM氏は中東にも行かず、もちろん湾岸戦争にも参加していなかった。彼の視力は糖尿病の余病で失われたものだった。
 相当なスペースを割いて彼が語った地雷が爆破したときの様子は、記者が内容の確認の必要性を考えもしなかったほど真に迫っていたらしい。
 読者から不信な点があると指摘され、再びインタビューを受けたM氏は去年、仕事仲間との雑談のときに作り話をしたところ、それに感激した同僚が新聞社に話を持ち込んでインタビューになり、「いまさら嘘だとも言えず…」と白状。
 一人歩きを始めた嘘を真実らしくするために、さらに気合を入れて話したのだろうが、その結果が主要紙の一面を嘘で飾ることになってしまった。
 話がこんなに大きくなってしまった以上、今後は気の毒だがM氏の言うことを誰も信用しないのではあるまいか。
 新聞編集に携わっていた私の場合、裏付けを取らなかったばっかりに臍(ほぞ)を噛んでいるであろうウッカリ記者になんだか同情してしまう。
 「何が、ありがとうだ!」
 Rさんは記事に心を動かされ感激していた自分に腹を立てている。【川口加代子】

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