前に日本語と漢字の存廃に揺れた維新後の明治新政府下の動きを紹介した。似た現象が大戦の敗戦後も起きた。今回は戦後編を碩学高島俊男先生の「漢字と日本人」や他の史料を参考に駆け足ご免で辿ってみたい。
 戦後、敗戦の混乱と米国の占領下、価値観が180度転換する中、米国の制度や文明が光輝く大波で押し寄せた。
 敗戦後の日本全般の精神の風潮は明治初期に似ていたがより激しかった。明治初期の日本人はそれ迄の日本には価値がなかったと考えたが、敗戦後の日本はそれ迄の日本は総てが悪で間違っていたと思った。戦争に負けたのは軍事、産業が劣っていただけでなく文化の敗北だ、要は国の文字と言語が駄目だったと。
 敗戦3カ月後に読売は社説で漢字の廃止とローマ字採用を主張し、もって民主主義と文化国家の建設をと訴えた。翌年、志賀直哉が国語問題の発表で日本語ほど不完全で不便なものはない、これを解決せねば文化国になれないとして、明治初期に国語の英語化を主張した要人たちに理解を示し、世界一優れ美しいフランス語を日本の国語にすべきと提唱したのもよく知られる。同年米国から教育使節団が訪日し、日本政府に漢字廃止とローマ字化を採用せよと勧告する。
 この中で戦後文部省は、国語審議会を使いまず漢字数を制限し、後に「全廃」して表音文字化する基本方針を進めた。廃止目的に告示したのが当用漢字指定と新かなづかい。当用漢字とは、漢字全廃までの当面用いてよい新体漢字表のことだ。新かなづかいは伝統無視の変な日本語を多く生んだがここでは省略する。
 ところが昭和期その後、漢字全廃と音標文字化は中途半端のまま止まった。敗戦後遺症から正気を取り戻した知識人が組織化し反対の声を挙げだすと、廃止の撤回はしないまま進行が止まったのだ。国語審議会はいつの間にか変質し許容漢字をわずかに増やしている。さらに現在はPCの普及により生活では旧体、新体字ともなし崩しに自由な使用が普及する現実となった。政府の方針撤回は明示がないが現実が凌駕した。だが危うい時代はけじめなく続く。奇妙でいびつな日本語の氾濫、死語の増加、国語力の劣化。日本語という花をきれいに育てるか萎れ腐らすかは日本人の肩にかかる。【半田俊夫】

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