首都圏に大雪が降ったその日、〈数十年ぶりとニュースが騒ぎ立てている大雪とやらも、北国の人には普通の日常なのだろう〉と考えながらも、強烈な勢いで顔に吹き付ける雪を払い、何度か転びそうになりながらも、家路を急ぎました。
翌朝は前日のことが嘘のように朝から快晴となりました。昨日が嘘でないと気づかされたのは、一日中降り続けた雪が、屋根も道も建物をも白く染め抜いて、ときおりチェーンをつけた車のぎこちない走りがよけいに静けさを強調していると感じたときでした。凍っていない道路わきの新雪を踏みしめながら歩くと、サクッ、サクッと表現しがたい気持ちの良い感覚を足の全体に感じて、ふと子供の頃の雪の日の思い出がよみがえりました。
木造の小さな小学校には石ころだらけの校庭があり、そんな地にも年に数回の雪が降り積もりました。雪が降ると誰もがワクワクしながら、休み時間や体育の時間を楽しみにします。そして外に出ることを許されたとたんに、校庭に積もった雪をさわりに外に飛び出すのです。おおらかだったのか、体育の時間は雪遊びの時間となり、雪だるまをつくったり、雪合戦をしました。遊ぶ唯一のルールは、雪の中に石を入れて投げないこと、でした。天から降ってくる雪の恵みは、そんなワクワク感を思い起こさせ、冷たさや儚(はかな)さとともに汚れたものを洗い流して新鮮な空気を肺の中に入れてもらうような感覚でした。
ちょうどこの日は、アメリカで育った長男が体験するはじめての選挙の日でした。日本の政治はつまらないと生意気なことを言う息子を説得し、雪の残る小学校に親子で選挙に行きました。
小学校の校庭では子供たちが元気に雪とたわむれており、〈ワクワクは今も昔も同じなんだ〉と思いながら、自分自身もわざわざ新雪の中に長靴を力強く踏みしめて、その幸せな感覚を刻んでいました。小さな感動に気づくことは、小さな幸福に気づくことかもしれないと、そう雪の日に思いました。【朝倉巨瑞】