これまでも何度かこの欄に書いたが、私は病を抱え込み、おかげで医療機関や透析センターへ通い、さらにはリハビリ訓練と、このところ週のうち6日は自分の思い通りにならない拘束の日々を送っている。自由な時間を取れるのは日曜日の一日だけだ。
 ビジネスの現役を引退してから16年あまり、なにものにも拘束されず、自由な生活を謳歌できると期待したのだったが、そうはゆかないのが人生のようだ。治療などのため自由時間を制限されることについて、当初は大きな抵抗を感じ、かなり落ち込んだことは事実だ。
 ところが時が経過し、今はこれらの治療などが日常生活の一部になるにつれ、拘束が待ち遠しくさえ思うようになってきた。週3回透析センターへ通い、腕に太い針を2本も刺されて3時間以上も耐えねばならぬ透析も続けねばという使命感のようなものが生まれ、これらを終了したあとの達成感が心を満たしてくれるのだ。
 最近、私は人生の意義、または生き甲斐に必要な要件とは『達成感』ではないかと思うようになった。自分にとって何かをしなければならない使命があり、それを成し遂げた結果、心の中にわきおこるのが達成感だ。
 この場合、「何かをしなければならない使命」は、より建設的、前向きなものであるべきだろうが、私はあえて内容にこだわらないことにしている。なんでもよいのだ。例えば今回の場合のように、自由な時間があっても無為に過ごすより、義務と苦痛を伴う透析やリハビリ訓練に使命感を見出してそれをやり遂げ、結果として達成感を得、生き甲斐を感じる自分を見つけるのだ。
 病を得ず、五体満足の状態で自由な時間があったら、もっと楽しく意義ある人生を過ごせただろうという思いがないわけではない。しかし、世の中、上を見たらきりがなく、また、下を見てもきりがない。負け惜しみでもなんでもなく、現状に感謝の思いからすべて始めれば今の自分は日々が達成感の連続であり、体調が不自由なるがゆえに世俗から離れたぶん、悩みも少なく、かえって平穏無事な日々を過ごさせてもらい感謝している。【河合将介】

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