歳をとると「きょうよう」がないといけないそうである。さもありなん。長年培ってきた教養は老後を豊かにする。だてに年はとってはいません。と思いきや、教養ではなく、今日用なのだそうである。
今日は透析を受けるちょっとつらい用がある。薬をもらってこなくっちゃあ。友人をキモセラピーに連れてゆく用。明日は血液検査の結果を聞きに行く用がある。テストの結果をドキドキ待つ学生のように緊張する。病院通いが日課になるのも誰もが通る用事だ。
トイレのタンクのパッキングがバカになって、水が流れっぱなしだ。パーツを買ってくるのが今日の用。水道代の請求書にミスがある。何度電話で交渉してもらちがあかない。お役所に出向いて直談判する用ができた。
反対に楽しい用もある。孫の空手の試合。バレエの発表会。話題の映画を見る用はウキウキ用だ。友人の絵画の展覧会に顔を出す。夜の音楽会や観劇は柄にもなくちょっとお洒落して出かけよう。県人会のピクニックにも行こう。ポトラックの料理は何を作ろうか。こんな用さえいったんやり始めればそれなりに楽しいのに、支度をする時は、一瞬、面倒に感じることはないだろうか。
仕事をしていると、難問に対処しなければならない関所のような日がある。その日の朝は少し憂鬱(ゆううつ)。シャワーにかかり、アイロンのきいたシャツを着て、自分にカツをいれる。嫌な用だが、困難に立ち向かう高揚した気分が味わえなくもない。働かなければ食えない。どんな仕事も厳しい。
気の重い用だが、片付けた後はすっきりする。人と会って話せば学ぶこともあり、第一自分も相手も活気付く。
歳をとればとるほど、全てのことは既に準備万端整って、用はだんだん少なくなってゆく。心配事を無くし「安心」だ、という状態をわれわれは「しあわせ」と同意語にしているふしもある。その「安心」がかえって精神を沈滞させるクセモノかもしれない。
面倒な用を嫌がらず、自ら増やしていくのが「しあわせな老後」のコツなのかもしれない。
「きょうよう」は増やせ、ということか。
いつからだって? 今日よ。【萩野千鶴子】