「ホテル人生、ここでリタイアできたら幸せです」と語る柚原章さん
「ホテル人生、ここでリタイアできたら幸せです」と語る柚原章さん
ダブルツリー・バイ・ヒルトン宴会場担当部長
柚原章さん

 日系コミュニティーのさまざまな催しの会場として多くの人に親しまれているホテル「ダブルツリー・バイ・ヒルトン」。同ホテル総支配人のジョー・クーさんと、宴会場担当部長の柚原章さんに同ホテルと日系社会とのつながりなどを聞く後編。今回はニューオータニ時代からホテルの移り変わりを見てきた柚原さんに話を聞いた。【取材=吉田純子】

移り変わりとともに
ニューオータニ時代に渡米

宴会場でその日行われるパーティーの打ち合わせをする柚原さん(左)
宴会場でその日行われるパーティーの打ち合わせをする柚原さん(左)
 ニューオータニ時代からホテルの移り変わりを見てきた柚原さんは74年に東京赤坂にあるホテル・ニューオータニに入社した。ロサンゼルスのニューオータニがオープンして4年後の81年、研修のため当地にやって来た。
 当時のニューオータニ周辺の小東京はギフトショップが軒を連ね、観光バスも日に4台ほど道に並ぶほど、日本人旅行者で溢れかえっていた。そのため宿泊客の80%以上が日本人。日本食レストラン「千羽鶴」もあり、日本庭園を見ながら食べられるご飯と味噌汁の朝食は好評だった。
 1年の研修を終え82年に赤坂のニューオータニに戻り、同ホテルにあるフランス料理店「トゥールダルジャン」の立ち上げに参加。同店でアシスタントマネジャーを務め、フランスにも研修にいった。その後は大阪のニューオータニ開業に携わり、日本で10年ほど働いた後、ロサンゼルスの日本人観光客の増加を受け、91年に再び渡米した。

ロサンゼルス暴動が勃発
日本人宿泊客が激減

 ロサンゼルスに来た翌92年にロサンゼルス暴動が起こった。勃発したのはホテルすぐそばの市庁舎前。ロビーのガラスは割られ、当時ホテル正面にあったロサンゼルスタイムズ社の駐車場では暴徒が車に火を放つなど事態は悪化していった。
 「その日、講演のためロサンゼルスを訪れていた海部俊樹元総理がホテルに泊まられていたのです。講演を終え部屋に戻られた総理が、窓から見える炎を前に『これはすごいところに来てしまった』と一言。そこで『ここから始まっておりますから後はもう大丈夫です』と安心して頂くためにそうお答えしたのを覚えています」と当時のエピソードを話してくれた。
 暴動時は宿泊客と従業員の安全を第一に、ホテルの中で避難。400人のナショナルガードも駐屯し、1週間ほどテントを張っていたという。ホテル側は彼らに食事を提供するなどの対応にも追われた。
 暴動後は日本人客が遠のき、80〜85%あった宿泊率は10%ほどまで落ち込んだ。セールス担当者は米国内だけでなく日本縦断旅行をして営業活動に励んだという。
 一方ホテルは2007年にニューオータニからキョウト・グランドになり、柚原さんは宴会の重要性からケータリングセールス部門の担当となった。その後、09年にトーレンスにあるミヤコハイブリットホテルがオープンし、ヘッドハンティングされ13年までの4年間、副支配人として働いた。そして今のダブルツリー総支配人クー氏から声が掛かったという。
 「彼は日本庭園、そしてこれまで利用してくれていた日本の宴会場利用客を大切にしたいとの意見を持っていました。米国人がそうしたことを理解するのは難しいと思っていたのですが、彼には日本文化を大切にする気持ちがあったので引き受けることにしたのです」

日本庭園への思い
毎朝庭をチェック

 「花は咲くと美しいのですが、枯れた姿はお客さまには見せられない」
 柚原さんは毎朝日本庭園をチェックし、庭師に指示を出す。景観維持のため週に2回は庭師が入りメンテナンスをしているのだ。
 もともと日本庭園は赤坂のニューオータニの庭園の縮小版をイメージして設計されたという。松や灯籠もあり、日本の佐渡から運んできた佐渡の赤石もある。
 婚礼やカクテルパーティーも催せるので、米国人利用客にも喜ばれている。「日向ぼっこをしたり、芝生に横になって本を読む宿泊客もいるのです」

国賓も担当したホテル人生
「ここでリタイアできたら」

柚原さん(左端)は2013年の二世週祭コートを務めた柚原メグミさん(中央)の父。夫人のカーニさん(右端)とはニューオータニ時代に同ホテルで知り合い結婚した。写真は二世週祭の時に親子で撮影
柚原さん(左端)は2013年の二世週祭コートを務めた柚原メグミさん(中央)の父。夫人のカーニさん(右端)とはニューオータニ時代に同ホテルで知り合い結婚した。写真は二世週祭の時に親子で撮影
 柚原さんは岐阜県飛騨高山で生まれた。高校の先生から「君は人と接するのがうまい。ホテル学校がいい」と奨められ、卒業後はホテル専門学校に入学した。たまたま研修で行った赤坂のニューオータニで、洗練されたウエーターの姿を目にした。「カッコいい」。数年後、自らが同じ舞台に立つことになった。
 仕事の醍醐味を味わったのは入社8年目の時。世界各国から国賓が訪日する際、宿泊先の赤坂迎賓館で国賓をもてなすのは名門ホテルから集結した選りすぐりの従業員たち。迎賓館に泊まり込みで食事や宴会のサービスを担当する大役に柚原さんは抜擢されたのだ。「4年ほどその業務に携わりました。各国のVIPを担当するようになってから仕事が面白くなってきました」
 客はわがままであって当然。ただそのわがままにいかに対応できることがホスピタリティーの基本と柚原さんは話す。「よくお客さまの話を聞き、お客さまの立場になる。そして希望よりひとつ上のことをする。『ひとつ踏み込む』ことが大事なのです」と力を込める。
 「はじめは駐在で米国に来て、ホテルレストランのマネジャーからディレクター、副支配人まで一通り担当し、また戻ってきました。仕事は楽しいですし趣味でやっているみたい。ここでリタイアできたら幸せですね」。ニューオータニ時代からホテルの移り変わりとともにホテル人生を歩んできた柚原さんは満面の笑みで話してくれた。

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