自分は男の子と思っていた
時あたかも、日米開戦になろうかという怪しい雲行きが漂い始めてきた1941年1月生まれの純子。大阪市郊外の豊中市にあった邸宅で育てられ、年の離れた兄2人と毎日一緒に遊び回っていた。自分では、兄たちと同じ男の子だと本気で信じていたし、兄たちと同じような格好をするのが大好きな、一風変わった感じの可愛い女の子だった。
男の子と同じように振る舞っていた純子だが、父親にとってはたった一人の愛しい娘。それこそ目の中に入れても痛くない自慢の子で、「私を抱っこして表通りを歩く時には、通りすがりの人からよく見えるように、私の顔を外側に向けて抱いていたほどなんです」
ここまでくると、親ばかぶりも『ご立派で、微笑ましい』と言わざるを得ないが、それほどに素顔は、顔立ちがキリリと整った女の子で、その面影は今に残る—。
空襲に遭い、丹波篠山に疎開
41年12月に勃発した太平洋戦争。毎日のように屈託なく遊び回っていた純子たちとは無関係に、戦火は広がっていく。やがて、米軍による容赦ない空襲で豊中の住宅街もおびただしい焼夷弾の雨に晒されるようになる。敵機襲来の空襲警報が鳴ると、そのつど、屋敷裏の防空壕に逃げ込むが、ついに被災。
ようやく兵庫県の丹波篠山に疎開した純子は、そこでも男の子ぶりを発揮していた。自分でゲートル(脚絆)をしっかり巻き、頭巾をかぶって兄たちと一緒に行動するのが常だった。
旧日本軍の兵隊さんが重宝したゲートルも、今では農村部のごく一部でしか見かけない。両足の脛(すね)に巻いて、行動時に裾が乱れないようにしたり、脚のうっ血を防いで血行を良くしたり、砂や小石が靴に入らないようにしたり、田畑や野原ではヒルや虫除けなどにも効果がある。
しかし、馴れない人がゲートルを巻くとすぐにズレてきたり、ほどけてしまうので大人でもじょうずに巻くのは難しいとされる。軍隊でも、ゲートルを巻けない初年兵は上官からビンタをくらったものだ。当然、子どもの純子にとってもゲートル巻きはかなり難儀だったに違いないのだが、「初めは難しかったのでしょうが、兄に教わってすぐに巻けるようになりました」というから、当時から指先が器用だったと思われる。
学校嫌いのイタズラっ子
終戦を迎え、新制の小学校に通うようになった純子。だが、どうも勉強が好きになれない。街には戦争・空襲で両親を亡くした浮浪児がたくさんいたし、彼らと一緒に遊ぶことが多くなった。
「親には注意されたのですが、まったく意に介しませんでしたね。焼夷弾が落ちた後にできたバクダン池には小魚がたくさんいて、魚を捕まえたりして、彼らと結構楽しく遊んでいたのを覚えています」
学校では、「優等生ぶっている子どもが気に入らないという理由だけで殴ったり、黒板消しにチョークの粉をいっぱい塗り付け教室に入って来る先生の頭に当たるようにドアの上部にセットしたりして、かなりのイタズラっ子でした」と振り返る。水がいっぱい入ったバケツを持たされて、廊下に立たされたことも数知れず。このような厳しい『体罰』が当時は普通に行われていたのだが、このお仕置きを受けた女の子は純子ただ一人だったというから、さぞかし職員室では『有名人』だったに違いない。
戦後も10数年したころに、父の会社が倒産するという不幸にも遭遇している。会社の備品だけでなく家財道具にまで差し押さえが及んだのだ。17歳の高校生だった純子の目覚まし時計や学用品にまで赤札が貼られていく。これを見た純子は、「なにすんねん、うちのやんか!」と声を荒げて税務署員に殴り掛かっていったというから、幼い頃に男の子たちを従えて鍛えてきた負けん気根性は伊達ではなかったようだ。
「民謡の神様」の内弟子に
「両親とも歌が得意な人でした。歌といっても、商売人ですから主に都々逸や端唄、小唄といった分野の唄が上手でしたね」
唄好きの両親の血筋か、純子も音楽レッスンを受けたいというと父親は「河原乞食の真似すんな!」と怒る。それでも純子は兄たちの勧めもあって親に内緒で発声法の個人レッスンを受け始め、中学生になるとオペラや歌曲のクラッシック発声法も学ぶ。さらに高校生になると民謡、詩吟、琵琶にも関心を示し、19歳までの4年間、熱心に習得に励む。その後、詩吟の先生の紹介で、日本一の民謡の神様と呼ばれていた佐藤松子家元に入門することになり、内弟子となる。
松子家元のもとでは民謡、三味線だけでなく民舞、長唄、端唄、俗曲、太鼓を強制的に習わされる。
「民謡に関連するすべてのことを知っていなければならない、というのが家元の考えでした。こうした家元の指導のおかげで、のちに自分が指導者の立場になった時に、家元から学んだことが非常に役立ちました」
純子は、23歳で名取りとなり、生涯の師として敬う松子家元の「松」と、子ども時代の思い出多い豊中から「豊」の字をもらって「佐藤松豊」を名乗り、25歳で師範を許されている。
サンフランシスコで10年指導
5年間の内弟子生活を続けながら、松子家元の方針により20歳からプロの道に入り、テレビ、ラジオ、ステージでも活動を始める。
「サンフランシスコには日本民謡連合会という団体があって、民謡はけっこう盛んで、メンバーは250人ほどいました。しかし、三味線を持っている人は数人しかいなくて技量レベルは低いものでしたが、熱心に学んでいました」
「アメリカに来た当初、生徒たちの弾く三味線は、ただ音さえ出れば満足しているような感じでした。あたかも未開のジャングルを開拓しに来たような気分になったものです。50年前は、中古品の三味線でも50ドル以上、新品で300ドル〜500ドルしましたから、ガソリン代が1ガロン25セント前後だった当時の貨幣価値を考えると、趣味の楽器としては高いものでした」として、多くは望めない環境も理解していた。
「それでも生徒の耳が徐々に肥えてきて、よい音色の三味線を弾きたがる人も出てきました。技量が向上してきた証しでもあるのです」と、指導者としての喜びの笑顔をみせる。
サンフランシスコでは、市内のほか近郊のバークレー、ローダイ、パロアルト、コンコード、サンノゼ、サクラメントなど8カ所の稽古場で約10年にわたり指導していた。
ロサンゼルスに本拠地移す
サンフランシスコで指導しながら、ロサンゼルスの南加日本民謡協会(八幡藤三会長=当時)からの要請を受け、月に1回程度の割り合いでウエスト・ロサンゼルスでも民謡と三味線の指導に当たっていた。
当時、サンフランシスコの日本民謡連合会の中には幾多の摩擦があり、組織として分裂の様相を呈していた。松豊は矢面に立たされながらも、数年の間はジッとそれに耐えていたという。
残念ながら、どこの世界にも往々にして見られるのは人と人のぶつかり合い。意見の相違、嫉妬や損得勘定などといった、物事の本質とはまったく別のところでいろいろなトラブルが生じるものだ。
そんな時、八幡会長の誘いもあって、1977年になるとついに本拠地をロサンゼルスに移す大決心をする。同年2月には小東京とソーテル地区に民謡教室を開設して、指導に当たる。「当時のロサンゼルスには民謡を習っている人は多くて、唄える人もけっこう多くいました。でも、三味線は長唄のほうが盛んで、民謡の三味線は少なかったですね」
サンフランシスコからロサンゼルスに移ってきて感じたことは—
「当時の経済環境にもよるのでしょうが、サンフランシスコで三味線を習う人は専業主婦の人が多く、練習時間が多く取れました。昼間の時間も自由に使える生活環境で、自分たちでグループを作って何度も復習をしていたようです。1年間で100曲くらい覚える生徒もいました。また、譜面を見て学ぶよりも音を聴いて耳から覚え、曲を弾いていくのです。こうすると体が曲を覚えており、ステージ・ショーの際でも会場からのリクエストやアンコールに譜面がなくても十分に応えられました」
そこで今では、グループレッスンの形態を採用し、7〜10人が同じ曲目を何度も弾いて体で覚えていくようにする方法を採っているのだという。
また、「サンフランシスコ時代の生徒は、先生の言うことをよく聞く人が多かったとの印象ですが、ロサンゼルスの生徒は独立心が旺盛で、自分に自信を持っている人が多いようです。譜面を見て自分なりに学ぼうとする努力は素晴らしいことなのですが、体に音が入っていないので数年経つと譜面がないと弾けなくなるのです」と、音楽芸能を学んでいく際の難しさを解き明かす。
幾多の災難を乗り越えて
民謡を指導していく上でサンフランシスコとロサンゼルスとでは、社会環境の変化や生徒の気質に違いがあることを感じつつも順調に教室を発展させ、地域社会にも密着して学校やコミュニティー・センター、敬老施設などでの活動も展開してきた佐藤松豊。
「もともと調子が悪かった車で、他人はアクセルとブレーキを踏み間違えたのではと言うのですが、エンジンをかけたとたんに暴走したんです。幸い、私は命が助かりましたが死んでいてもおかしくないほどの大事故だったようです。口の悪い友人は『地獄の入り口で閻魔(えんま)様に追い返されてきたんだろう!』なんて言ってます。レントゲンで診ると、体内には手術の際に使ったステープラーがまだ何個も残ってるんですよ」と他人事のように明るい調子で話す。今からちょうど30年前の出来事だ。
車の事故もおおごとだが、松豊にはさらに大問題が発生していた。
「民謡を教えながら、子育てをして、仕事をいくつも掛け持ちで働き詰めだったのは大変でしたが、それでも気持ちだけはくじけないように楽しく持っていました。ガーデナ・マルカイの薬売り場では17年間、働かせてもらい、社長さん夫妻にはとてもよくしてもらいました。命の恩人です」と語り、「私のこんな借金話は、周辺の誰でも知っていることですから記事にしてもらっても構わない」と、これまた他人事のように平然と話してくれる。
『三つ子の魂、百まで』というが、2人の兄だけでなく近所のガキたちを集めて遊んでいた子どものころの気性そのままで、本人が辞退しても、『男勝りの女番長』『肝っ玉母さん』という輝かしい称号をあげたいくらいだ。
日本民謡の『伝道師』として生きる
佐藤松豊は2015年11月、日本民謡「松豊会」創立50周年記念公演『民謡の祭典』を日本から民謡界の第一人者らを招いて盛大に挙行している。それまでに松豊会から9人の師範を誕生させ、名取りは150人近くを育ててきた。
三味線、尺八、太鼓、ギター、ベース、ドラムといった組み合わせで、これまでにない新鮮なハーモニーを醸し出す民謡と洋楽のコラボレーション。こうした活動と相まって「民謡が若い世代にも深く、そして着実に浸透していっているのが感じられます」と語る松豊。「民謡の持つ美しい旋律と日本の心が、多くの人に伝わっていってほしい」との夢に一歩ずつでも近づけるよう、松豊会の教室からは今日もまた、えも言われぬ魅惑的な三味線の音色が鳴り響いてくる。
【取材を終えて】
ガーデナ市にある松豊師匠の稽古場。防音装置が施されているので、夜遅くまで稽古ができるという。曲想によって使い分けるという三味線が十数棹(丁)立て掛けられている。中には一棹3万ドル近くするものも。「よい音、よい響きが出るようにするには常に注意深く管理することが大切です。皮の部分は湿気に弱いので、雨降りやヒーターの有無などにも気を使います」。実際、気候や湿度などにより保管方法や場所を変えなくてはならないので、赤ちゃんを世話するより手間がかかるという。
日本民謡の素晴らしさ、魅力について聞くと、「日々の生活の中から、自然に生まれてきた音楽」だからと明快だ。漁をする時、馬を引く時、農作業をする時、人々は掛け声をかけながら語るように唄う。「最近は、その土地特有の言い回し、方言が抑えられる風潮になってきたのは寂しい。味わい深いその土地の特長が薄れてしまう」とも。
車の大事故から生還し、大きな借金を完済し、日本民謡を普及してきたたくましいエネルギー。その健康法は? 「嫌なことは忘れること。過去の体験を通して、嫌なこと、悔しいことを忘れる訓練をしてきた」と言い、「あとは、食べ物は油分を除いて食べることぐらいかしら」。いたって健康である。
3男1女を立派に育て上げ、孫が3人。大の犬好きで、14年間飼っていた珍島犬(ちんどけん)を約1年前に亡くしたが、「義理人情が分かり、飼い主の気持ちを先取りする賢い犬だった」という。現在は1歳の柴犬「ナナミ」と一緒の生活。
娘の小杉真リサが「民謡ステーション」などで活躍し、若い生徒たちも自発的に敬老ホームの慰問公演などを推進するようになった成長ぶりを喜ぶ松豊師匠。長年受け継がれてきた日本の『三味線文化』が、これから100年、200年と継承されていく手応えをしっかりと感じているようだ。【石原 嵩】