元気がないとき、日系人の友人が海の向こうから檄(げき)を飛ばしてくれる。「まだ私の半分も生きていない。人生はこれからだ」。もうすぐ傘寿を迎える人生の大先輩。若い頃を懐かしみ、体の衰えに戸惑いながらも、アメリカに渡った日本人について研究し執筆する。若者を励ましつつ走り続ける。その姿にいつも勇気をもらう。
1月半ば、何かに背中を押されるように向かったのは北海道の富良野。山間にある小さな劇場。ドラマ「北の国から」で知られる脚本家、倉本聰さん(82)の最後の舞台公演が始まったばかりだった。題名は「走る」。
人は何のために走るのか。何に向かって走るのか。前に出たがる者、必死に後を追う者、ついていけず脱落する者…。人生を1年365日の四季になぞらえた「時のマラソン」という設定で、人間が生きる意味を問う作品だった。
倉本さんもこの作品に自分を重ねる-「思えば僕自身80余年という人生を、ひたすらがむしゃらに走り通してきた。どうしてこんなに苦しみつつ走ったのか、その正体が、思えば分からない。だが全力で走り続けることが自分の美学だと思ってきたことは事実だ」と。
これまで1000本以上の作品を手掛けた人気脚本家の人生も、順風満帆ではなかったという。39歳で担当した大河ドラマでスタッフと衝突し途中降板。東京を捨て北海道にやってきた。雪深い小さな町、富良野で暮らすようになり、そこで執筆したのが大ヒット作「北の国から」。彼の人生を知るほどその言葉に重みを感じる。
テレビの番組では、こんな含蓄のある言葉も残した-「自分の能力を超えたものが書けちゃうときがある。そのときは自分の後ろにいる何か、サムシンググレートが書かせてくれているんだ」「自分の力で書いているうちはプロではない。何かにのられて、自分の力でなく書けるようになって初めてプロだと思う」。
あまりに耳の痛い話だ。このコラムを書く際も、誰も乗り移ってはきてくれない。ということはまだまだ半人前。倉本さんが人生を再スタートさせた39歳に近づいている。負けずと走り続けたい。彼の半分も生きていないのだから。【中西奈緒】