選挙の度に選択に一番時間がかかり、不真面目な話だが、最後には誰が誰だか分からなくなって、適当に選ぶのが判事の選択である。
日本から来て選挙権を獲得した帰化市民の友人は、「何となく真面目そうな名前だから…公平そうに見えるから」と理由にならない理由で判事を選んでいた。
コンピューターを開いたり、図書館に出かけるとかすれば過去の裁判で彼らがどのような判決を下したかを調べることはさほど難しいことではない。
しかしそこまで勉強して投票に臨む一般市民がどれだけいるだろう。
せいぜい選挙運動で配られる移民法や妊娠中絶の是非に関するチラシやダイレクトメールの情報で保守か革新か、辺りが基準である。
今月末で退官する連邦最高裁のケネディ判事の空席を埋める候補を大統領が推薦した。
カバノー判事を選んだトランプ大統領の推薦の言葉も、それを受けた候補者のあいさつも、それだけ聞いていれば、素晴らしい家族に育まれ、名門校に学び、その業績に一点の曇りも無い…と続くのだが。
もちろんどの大統領が誰を任命しても、自党、自分の政治方針にマイナスになる判事を選ぶはずが無い。
トランプの場合、共和党の思惑は別として、まず心配の種はロシア絡みの選挙違反やら売春婦に支払ったらしい口止め料やら、炎とまではゆかないものの、身辺にいつまでも煙の絶え間がなく、インピーチされる心配がある。この問題が最高裁まで行ったときに、赦免の一票を入れてくれる判事を自分の手に握っておきたいはず。
魚心あれば水心、である。
ケネディ判事の後釜は、判決の賛否が同数で分かれないために均衡を崩す奇数、九番目の判事となる。
これを上院で慎重に審議してゴーサインを出すかどうかなのだが、この辺りになると、もう一般有権者の手は届かない。
公平な私情を交えない判断を下す法廷のシンボル、目隠しをした女性が掲げるスケールはいつもフラフラどちらかに傾いていて、それをアメリカのバランスというのかもしれない。【川口加代子】