松本清張が万葉集に造詣が深いという話は以前何かで読んだことがある。清張作品には万葉集に収められている大和言葉が頻繁に出てくる。
例えば、『山峡の湯村』に出てくる「かずく(潜く)」という言葉だ。かって能登で海女だった女主人公が湖畔の水鳥がエサをとる様子を「かずく」(かづく)と表現している。水中にもぐって魚介類をとることをいう。
万葉集の一句からきている。
「楽浪(ささなみ)の 志賀津の海人(あま)は われ無しに かずきは なせぞ 波立たずとも」
清張は、短編の『たづたづし』に出てくるサラリーマンの深層心理を「たづたづし」と描写している。はっきりしなくて不安な状況や心境をいう。こちらも万葉集の一句にある。
「夕闇は 道たづたづし 月待ちて 行ませ 我背子(わがせこ)その闇に見む」
「我背子」とは親しい男性のことだ。
中国人の知人とよく筆談をする。「漢字はいい。一字で意味が分かる」とお互い悦に入っている。だが、こちらの気持ちをすべて漢字で表わすことは出来ない。
夕暮れ時を「黄昏」「薄暮」と漢字で書いても、「逢う魔が時」とどこかオドロオドロしく表現する漢語はない。
昼と夜の間のあのぼんやりとした、悪魔に出くわすかもしれないようなぞくぞくした夕暮れどきを表わす漢語はないようだ。
「月が冴える」という。澄み切った空気の中で鮮明に見える月。大和言葉の研究家、高橋こうじ氏によると、「冴える」の元は大和言葉の「さやか」。転じて「頭が冴える」とか「冴えない顔」といった言い回しも生まれている。
「月影がさやか」ともいう。大和言葉の「影」には「光」というニュアンスがあるらしい。
新元号「令和」が万葉集から引用されたことに誘発されて万葉集が見直されている。
万葉集ブームに便乗しているわけではないが、現代人と同じように台風や地震に襲われながら必死に生き抜いていた大和人(やまとびと)に想いを馳せる。【高濱 賛】