日本では年末になると各地で第九交響曲が演奏される。第九の作曲家・べートーベンはドイツのボン生まれ、貴族に仕える音楽士の父親から幼少時より音楽の特訓を受けた。1789年18歳の時フランス革命が勃発。ナポレオンの掲げる「自由・平等・友愛」に共鳴し、「僕の芸術は、僕と同じ貧しい人々の運命の改善にささげられなければならない」と親友の手紙に記した。それまでの音楽家は、王侯・貴族の召使いで料理人などと同じ使用人、貴族を楽しませるだけの存在だった。
べートーベンは、高揚感と情熱の赴くままにナポレオンにささげる交響曲第3番「英雄」を作曲。また、彼は、音楽家は独立した芸術家であるべきだと考え、劇場を借り切る「チケット制」を考案。市民が資力に応じて相応に買える値段のチケットを販売した。それは仲間に「貴族の召使い」から「音楽家として自立する道」を開き、音楽を市民へと解放した。
20歳代の後半に難聴という致命的な病気にかかり、40歳代には日常会話も筆談帳に頼った。この難聴は彼の作風まで変え、難聴の進行に伴って高音が少なくなり、中・低音が増えた。
メッテルニヒが王権復活の動きを始め、もう一度中世の封建社会へ戻そうとする動きが周辺国へも広がっていった時に、べートーベンが「自由の力が身分や階級の差をなくす」という信念に基づき、市民のための音楽を通じて「自由」を守ろうと作曲したのが交響曲第九番「歓喜」であった。
「歓喜」は、第1から第3楽章までが序章で、第4楽章で「合唱」が入る。背景合唱はプロの女性歌手たちが悲鳴をあげるほどの高音ソプラノが延々と続く。まさに肉体の限界への挑戦だが、全世界にこの理想が広がって欲しい、自分には聞こえない高音の心の音を「自由を追い求めて世界の人々に届けたい」との願いであった。
「音楽家に自立の道を開き、音楽を貴族の楽しみから市民に解放し、音楽に作曲家の情熱や感情を込めて聴衆と感動を分かち合う」という偉業を成し遂げたべートーベンは、まさに100年も時代を進めた真の「楽聖」と言えるだろう。【若尾龍彦】