総理大臣や東京都知事が率先して、「クラスター」「ロックダウン」「オーバーシュート」と乱発している。
これらは世界共通の統計学や分子科学の用語だから仕方あるまい、と総理は釈明するかもしれない。確かに「クラスター」を「群れ」とか「集団」とか訳すとかえって分かり難い。主要メディアが「クラスター」と数回繰り返せば、大方の日本人はそれが何かを理解してしまう。
ポピュラーな評論家、G氏はカタカナ語の氾濫を憂いて、こう論じている。「カタカナ語乱用の根底には、卑屈でゆがんだ欧米崇拝意識がある。差別語認定された言葉をカタカナ語に言い換えるのは、その好例だ」
果たしてそうだろうか。明治の頃ならいざ知らず。令和の時代、そう考えている日本人はどのくらいいるだろうか。G氏は、さらにG氏よりもずっと若い(と思われる)ニューヨーク特派員がマンハッタンの風景を描写した以下の記事にもいちゃもんをつけている。
「警備員の男性が嘆くようにこうつぶやいた。『クレージーだ』」
G氏は、「クレージーを日本語で表現できない方がクレージーだ」と特派員氏の語彙力のなさをなじる。だが日本人なら「Crazy」が元来、「頭がおかしい」「狂っている」という意味であることぐらい知っている。
静まり返ったマンハッタンの街を見て、警備員がぽつりと言った「It’s crazy」。これを「これは尋常ではない」など日本語に訳す方が臨場感には欠ける。
「狂気じみてる」「どうかしている」「まともではない」といった複雑な思いを「Crazy」と表現したのだ。日本からやってきた日本人の若者だって、ゴーストタウン化したマンハッタンを見て「クレージーだ」と日本語で呟いたかもしれない。
「クレージーとか、ビューティフルは僕たちにとっては日本語ですよ」。UCLAに留学中の日本人学生に言われた。
グローバル化社会の中で言語は「緊密接触」しながら互いに感染し合い、認知し合っている。「Tsunami」や「Kabuki」は今や立派な英語になっている。
無制限のカタカナ語導入は感心しない。だが、場合によって不可避だし、かえって自然かもしれない。日本人がそれだけグローバル化している表れではないだろうか。【高濱 賛】