放送内容は娯楽と藤井社長の講演で構成されていた。新聞社主催でありながら、ニュースは放送されなかったようである。娯楽については、ハリウッド、キーストン、サンファナンド、ホーソンなど基本的に1回につき1地区の特集を組み、各地に組織されている後援会や支部に属する芸達者な人を番組に引っ張り出した。そこでは詩吟、民謡、都々逸など、日ごろの練習成果が発表された。36年11月19日は社内かくし芸大会といったところで、小松良基東京支社長の都々逸、同年9月に営業部員になったばかりの畠錦声の琵琶「台湾入り」、寺田一男工場長の音頭、松井豊蔵編輯長の「佐渡おけさ」などが披露されて大喝采を浴びた。
娯楽に加えて毎回欠かせないのが藤井整社長の講演である。「口よりも手足の方を余計にはたらかす習慣の私」(加毎1936年2月5日)というのが本人の弁であるが、通常の講演に比較して10分未満という極めて短い時間で、表情や態度を伝わらない中で話をするのに苦労していたという。
日本支持、日本軍部の行動容認のスタンスを取っていた加州毎日新聞ならではの企画として、日中戦争における広東、漢口陥落を記念する祝賀番組「戦勝感謝放送」や「日支事変二周年記念放送」などの特別放送を行い、コアなリスナーから大絶賛を浴びた。
40年2月8日をもって尾座本がアナウンサーをやめ、ガーデナ平原日本人会の幹事に就任した。後任は営業部の丸谷潤子が担当した。丸谷は戦後復刊された加州毎日新聞のゼネラル・マネージャーとして腕を振るうことになる人物である。加毎放送も日米開戦まで番組が継続された。(終わり)
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