久しぶりに帰省した青森・弘前は、高速道路の山側にはもうリンゴが紅く熟れ始め、ススキが揺れて爽やかな風が吹いていた。
 帰路は、弘前から新青森駅で新幹線。9月初旬の旅は秋晴れで、津軽平野は一面の黄色い稲穂。遠くに八甲田山脈が広がり、山裾にはリンゴ畑が連なって遠くの雲も秋の気配。座席の前の雑誌「トランヴェール」を開くと、「タイムカプセルから飛び出した古代群馬」の副題で群馬の古代遺跡特集が載っていた。
 高崎の周辺には大室古墳群、八幡塚古墳、観音山古墳などがあり、群馬の古墳は総数約1万4千基も。長さ96メートルの巨大な前方後円墳の墳丘は、びっしりと葺石で覆われている。そして数多くの馬の埴輪が出土しているのが特徴だ。特集の目玉は、平成24年11月に黒井峰遺跡から発見された甲を着た古代人。日本初の鹿角製小札甲を着たこの男性は、6世紀初めの榛名山の噴火による火砕流に襲われ、甲を着て溝にうずくまって発見された。彼の周辺から石製の管玉とガラスの首飾りをつけた女性と幼児、もう一体の乳児。これらの所持品から大豪族クラスの家族と見られている。
 この膨大な古墳群から、群馬は地形に恵まれ、朝鮮経由で渡来した馬の産地と、利根川という水運に恵まれ、東方へ勢力を伸ばす大和朝廷の前進基地の役割を果たしたと推定される。さらに上野三碑(山上碑、金井沢碑、多胡碑)という3つの碑に刻まれた文字は、東アジアとの文化交流の軌跡、倫理を重んじ、同族を慈しみ、多様な人々が共生する、普遍的な社会観をにじませ「世界の記憶」としての価値があるという。
 大規模古墳、精巧な甲や装飾品、埴輪や多くの出土品からこの特集の筆者は、群馬が東国で突出した当時のハイテクと文化の拠点であったと位置付けている。青森にも三内丸山遺跡がある。当時その辺りは川が注ぐ海岸であり、温度は今より3度以上も高く、魚貝だけでなくドングリや椎や栗などの食物も豊富だったという。
 日本の各地にはまだまだ古墳は多く、ここ川崎にも至る所に遺跡がある。日本の古代は意外に豊かで、これから更なる解明を期待したい。【若尾龍彦】

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