大林宣彦監督が永い「ロケハン」に旅立ってから、ちょうど5カ月目に自宅を訪問しました。人が集まれない状況下で、葬式にも出席することができませんでした。玄関の呼び鈴の音が、懐かしくも寂しくも響くと、奥様の恭子さんが笑顔で出迎えてくれました。「今日は監督の月命日にお会いできてよかったです」と伝えると、「そうだったですね」と微笑み、映画の資料がたくさん乗っているテーブルに招かれました。
 大林監督は1960年代からCM撮影のために度々ロサンゼルスを訪れ、本当にロサンゼルスが大好きだったので、監督の作品が度々上映されたことを本当に喜んでいたようでした。恭子さんは監督と一緒に、初期の頃から多くの作品に関わってきました。ひとつひとつの思い出を語るとその頃を思い出すようで、質問をするたびに涙を浮かべながら丁寧に答えてくれました。
 監督の作品と縁が深く、日本三代花火大会が行われる新潟の長岡では今年は花火大会は中止になったのですが、監督の供養にとサプライズで慰霊の花火が打ち上げられたそうです。監督好みのカラフルな花火は平和のメッセージとして大きな輪となって広がり、いかに大林監督という人が多くの人々に強烈な影響を与え、そして平和を思うための作品を残したことを思い知らされました。
 ふと肩を叩かれるような気がして後ろを見ると、監督のシンボルである遺品のティアドロップのサングラスが置かれ、その後ろには白い箱に入った遺骨が置かれていました。モニュメントバレーで馬に乗っている写真が遺影でした。写真の横にはチャールズ・ブロンソンさんがいたとのことでした。
 ずっと気がつかないまま恭子さんと話をしていたのですが、私の後ろには監督が黙って佇んでいて、私たちの話を微笑んで聞いてくれていたのでした。恭子さんは私に向かって話していたのではなく、私の後ろにいた監督に話しかけていたのかもしれません。
 私は線香をあげさせてもらい、監督の遺作を上映させてもらう事を伝え、大好きなロサンゼルスの街に連れて行けなかったことを詫びました。【朝倉巨瑞】

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