
南カリフォルニア大学(USC)には、第二次世界大戦中の1942年に学業を中断し、マンザナー収容所で2年近く暮らさねばならなかった日系人の学生たちがいた。そんな学生の1人、法学生だったフランク・チューマンさんは、キャンプから解放された後、別の大学で教育を受け、その後、「コレマツ事件」の画期的な裁判などで差別と闘い、何十年にもわたって法曹界で活躍した。104歳になったフランク・チューマンさんはこのほど、USCから名誉学位を授与され、キャロル・L・フォルト学長からビデオで表敬を受けた。【ロン・マッコビッチ、USCニュース】
1942年、当時のフランクリン・D・ルーズベルト大統領が日系米国人や日本人移民を、米国西部を中心とした収容施設に追放した際、法学部生のフランク・チューマンさんは他の100人以上の日系学生と共にUSCを後にした。
チューマンさんは、米国に移住した日本人の親から生まれた2世世代の1人だ。チューマンさんを含む2世たちは、収容所に入れられた12万人のうちの75%近くを占めていた。残りの25%の人たちは、家族で初めて米国に来た両親や祖父母を含む日本人移民だった。収容期間は人それぞれで違っていた。シエラネバダ山脈の東の谷間にあるマンザナーに住むことを余儀なくされたチューマンさんは、1年以上そこに滞在した後、収容所から解放された。
それから60年、チューマンさんは遠く離れた場所で法律の学位を取得し、谷のようなどん底の収容生活からキャリアの高みに上った。このような虐待を他の誰にも経験させてはいけないという思いから、差別的な法律や判決に異議を唱える人権擁護者として有名になった。ルーズベルト大統領令9066号に反して収容所に行くことを拒否して投獄されたフレッド・コレマツの有罪判決を、最終的に裁判所が覆すという、数十年にわたる努力の末に勝ち取った成功において、彼の戦略は不可欠なものだった。
2012年にUSCが存命中の当時の2世学生に名誉学位を授与した時、チューマンさんはすでに引退してタイで暮らしていた。昨秋のキャロル・L・フォルト学長の決定により、全ての2世学生に名誉学位が授与されることになった時、まだ存命の学生がいるとは考えにくかったが、USCアジア太平洋同窓会事務局長のグレース・シバさんは、希望を持ち続けた。 「この活動を始めた当初から、私はまだ生存している2世の学生を見つけることができると楽観していたので、記録にある学生たちを調査し始めた。幸いなことに、フランク・チューマンさんがタイに住んでいることが分かり、勇気づけられた。トロージャンズ(USC同窓生の愛称)のネットワークを通じて、何とか彼と連絡を取ることができた。その後は歴史に残る展開になった」。シバさんはこのように話している。

12月中旬にシバさんが連絡を取ってからは、チューマンさんの名前で名誉学位を発行するために、学長、学長室、入学課、進級課、登録課が急ピッチで動いた。数日後には、学位がタイの自宅宛てに発送され、キャロル・L・フォルト学長からのビデオメッセージが制作された。学長は正装し、104歳のトロージャンに語りかけるように、あいさつした。「あなたが当大学で法律の学位を取得することを許されなかったことを、とても残念に思う」と、フォルト学長は述べ、「この重大で不当な行為から80年、あなたの傑出した法律家としてのキャリアと、日系人救済活動への変わらぬ貢献に感謝する意味で、この卒業証書を受け取っていただきたい」と続けた。さらに、「公民権におけるあなたの活動や、最高裁で論じられた画期的な憲法訴訟への関与は、米国の正義と正しさを示している。あなたは、今の学生たちが目指すべき輝かしい模範である」と述べた。フォルト学長はまた、チューマンさんが1976年に出版した「The Bamboo People」を、日系米国人の法制史、外国人土地法、移民制限、戦時中の収容などを網羅した画期的な著作として称賛した。
「竹は折れない」
母の言葉を胸に
自分の物語を他の人にも知ってもらいたいと考えていたチューマンさんは、94歳の時に回顧録「マンザナーとその後」を出版している。これは、サンタバーバラ郡から始まった彼の人生の旅路を記録している自伝だ。7歳の時、家族と共にロサンゼルスに移った。思春期にはギャングの一員となったこともあったが、高校時代は成績優秀で、スポーツ万能として活躍し、雄弁でも知られていた。カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校(UCLA)に入学する前には、イーグル・スカウトにも所属した。UCLAでは予備役将校訓練隊(ROTC)に所属した。1938年、卒業を間近に控えて外交官への応募を考えたが、当時のUCLA政治学部長は、国務省が彼のような人種を採用することはないと言って、彼を思いとどまらせた。
チューマンさんは、人種差別がまん延していた世界恐慌時代の風潮を描いている。2世はカリフォルニア工科大学を卒業しても工学の仕事に就けず、法律事務所は2世の弁護士を雇わない時代であったと書いている。やがて、彼はウエストビバリー大通りの市場で、農産物の木箱を運ぶ仕事を見つけた。木箱の持ち運びが大変で、割れた木箱で手を切り、レジを操作するにも指の関節を使わねばならなかったとつづっている。

しかし、マーケットでの肉体労働のほかに、もっと自分にできることがあると信じ、目に見えない大きな壁にぶつかりながらも、給与を貯めて教育を受け続けようとした。ある日、青果部の日本生まれの同僚が近づいてきて、「UCLAを卒業して、進学のためにお金を貯めているそうだね」と皮肉られたという。「そんなバカな夢は忘れろ。いい仕事は白人のためのものだ。俺たちみたいな日本人には就けないさ」と言う同僚に対し、チューマンさんは、「私は彼が言っていることが真実だと知っていたので、黙っていた」と、振り返っている。
同年秋、ロサンゼルス郡にメッセンジャーとして採用された。郡内の部署や裁判所を回って書類のファイルを運びながら、弁護士や裁判官のやりとりに魅力を感じたという。40年9月、法学部の学生としてUSCに入学した。
42年2月19日に日系人の強制収容命令が出されると、チューマンさんは、シエラネバダ山脈の東、オーウェンズバレーにあるフェンスで囲まれたマンザナーに住むことになり、収容所内にある250床の病院の管理者となった。収容所から解放後、43年にトレド大学に入学し、勉強を再開した。その後にメリーランド大学で、同大学初のアジア系米国人の法学生となった。45年に法学博士号、そして47年に司法試験に合格した。その後は、人権問題に取り組み、移民や日系米国人の権利と保護のために闘い、日系人の文化が認められるための機会を探した。法律家としてのキャリアを通じて、日系米国人市民リーグ(JACL=the Japanese American Citizen League)の法律顧問を務め、日系米国人の経験を定義する文書の保管所である日系米国人研究プロジェクト(Japanese American Research Project)の設立に貢献した。
チューマンさんは回顧録の中で、100年以上続く彼の人生の支えとなった、幼少期に母親から掛けられた言葉を回想している。
「あなたは竹のような存在でなければならない。厳しい風が吹けば、体は低く曲がり、心は絶望と苦しみでいっぱいになる。枝には氷と雪が積もる。しかし、竹は折れない。竹は強く、弾力性に富んでいる。どんな苦難にも耐えることができる。あなたも竹のようにならなければならない。人生で直面する激動の中で、自分が折れることを許してはならない」
