1943年アーカンソー州ジェロームの収容施設で撮影された1枚

 第2次世界大戦中、ルーズベルト大統領が日本人と日系人の強制収容を命じる大統領令9066号に署名した1942年2月19日から、今年で80年になる。2月19日の「追憶の日(Day of Remembrance)」に合わせ、ツールレーク、ジェローム、アマチでの収容所生活を送る日系人の集合写真を残した写真家、オオヤマウシゾウの写真を紹介する。
 「義父が写した写真は、奇しくも集合写真の力と最高の皮肉で、収容生活の中でも、まだこの国の一部であるかのような人々の気配を捉えています。ある1枚の写真には、若い米兵や若い女性、高齢者などが一緒に写っています」。写真提供者のオオヤマサチさんはこのように話している。
写真家オオヤマウシゾウ

大判カメラを抱えてファインダーを覗き込み撮影するオオヤマウシゾウ

 オオヤマウシゾウは写真黎明期の1884年、福岡に生まれた。1920年代に渡米し、入学したイリノイ州の写真学校で、写真術の初歩を学び、写真に魅了された。
30年代には未亡人だったツネと結婚し、サクラメントに肖像写真専門の写真館を開設した。41年に太平洋戦争が始まると、家族は日系人収容所への入所を余儀なくされた。最初のウォラガ(サクラメント)の集合センターから、42〜43年ツールレーク、43〜44年アーカンソー州ジェローム、最後は44〜45年コロラド州アマチまで、収監場所は転々とした。
 だが、幸いなことに収容所当局からカメラや撮影機材を没収されることはなく。むしろ、この間、当局は集合写真の撮影を許可し、オオヤマに月18ドルを割り当てた。写真の知識、そして最も重要な、フィルム処理に必要な機材と技術を駆使して、写真を撮った。
 オオヤマは事実上、米国の歴史の一部を保存することになった。
 45年に戦争が終わり、一時期はオクラホマ州スティルウォーターで、日本に派遣される予備役将校訓練課程(ROTC)の学生たちに日本語を教えた。その仕事が1年後に終わると、最終的には、ロサンゼルスのボイルハイツに向かった。一家が滞在したのは当時ユニオン教会が資金を提供し、収容所から帰還した日系人のために運営されていた仮設住宅のエバーグリーンホステルだった。
 写真館を再開することはできず、クリフトン食堂で鍋や釜を洗う洗い場の仕事に就き、やがて引退した。その後は妻ツネと2人の子どもと余生を過ごした。次男は10代の時にオクラホマで亡くなったという。
 晩年、オオヤマはアルツハイマー病を発症し、自身の記憶は消えてしまったというが、写真家として捉えた収容所の人々の写真が残され、記憶を伝えている。

米国ボーイスカウトの本部前で撮影した集合写真。後方のバナーには「造花盤景」と書いてあり、展覧会の出品者らと思われる

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