羅府新報のコラムに寄稿させてもらうようになったのは、1996年1月22日だった。以来28年、今回で365回にもなる。当初は友人に編集長を紹介されて書き始めたが、このように永く続いたのは拙い雑文を読んでいただいた羅府新報の愛読者の皆さまと編集部の温かいサポートのお陰だった。
 1981年4月末に渡米し、28年間を快適な気候に恵まれたロサンゼルスで過ごし、2009年に帰国した。自分の滞米期間と執筆期間が共に28年間というのは偶然の一致だが、因縁的なものを感じる。
 すべての原稿は目次をつけて保管してあるが、いま読み返してみると当時のさまざまな話題や自分の関心事に関したものが多く、私にとっては日記(いや月記かな?)のようなものであり、忘れ難く懐かしいロサンゼルスの街や人々を思い起こす機縁となっている。
 最終回にあたり、長年ご愛読いただいた読者の方々と羅府新報社の皆さまに心からの御礼と感謝を込めて惜別の辞を申し上げます。
 外国勤務など夢想だせず英語も苦手の自分がLA駐在員になるとは。渡米時、米国の子会社は郊外のトーレンス市にあり、静かで落ち着いた人口13万人ほどの街、会社は日系人の従業員も多く、英語が喋れなくても自分は日本語で話し、相手は英語で答えて充分に通じ合っていた。40歳での渡米、この歳で外国語の習得は難しい。追い詰められないときっかけがつかめない。大口の顧客であるGMに正式な納入業者として認められるサーベイがあった。1年間かけて準備をし、5人のチームが調査にやってきた。朝8時から夕方5時まできっちりと調査をする。最後の関門が本社での審問だった。
 自分は資料を作成しただけ、出番がないはずだが社長が腰痛になり代理で行くことになった。東部の会社は朝が早い。審問は早朝7時から始まった。「私は渡米6年になります。いまだに英会話は日本語で文章を作り文法に照らして口にする。聴く時は英語を文法に当てはめようやく理解します」と始めた。会社の世界的なビジネス展開、マーケットシェア、基本姿勢などを述べた。終わると相手のファイナンス担当のトップが立ち上がって拍手をしてくれた。それが英語で話し始めるきっかけとなった。恥ずかしくも懐かしい思い出である。(続く)(若尾龍彦)

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