人は一体いつ、住んでいる異国の地を自分の永住の地として受け入れることができるようになるのだろうか。どのような事態がそれを可能にさせるのだろうか。日本への永住帰国の問題について考えている際、逆に、この疑問についてまともに向き合ってこなかったことに気付いた。そんな折、山城正雄の著書「帰米二世」がふと気になりだした。特にその副題「解体していく『日本人』」である。
考えてみれば、結婚して家族を持ったら、子どものためにこちらに永住しようという気になるのは当然であろう。親戚がいるなら、異国にいるという感じすらしないかもしれない。逆に、日本に誰も家族がいなくなれば日本に帰る気にならなくても不思議でない。他にいくらでも米国に永住するようになる要件はあるだろうが、家族の問題はその最も大きなものと言えると思う。
しかし、家族や親戚がなく、1人で米国に暮らしている場合、もっと内面的な要素が米国永住を決めるために必要になるのではないか。たとえ米国の永住権や市民権を取得しているとしても、それらはやがて法的な問題でしかなくなる。
山城はハワイ生まれで、幼少時を沖縄で過ごし、ハワイに戻ったあとロサンゼルスに渡って来た帰米2世である。彼は同じ年頃の純2世に対する違和感を感じていたし、日本人の純主観に生きることからは遠いところにいた。その山城は「私の『日本』は時の流れに少しずつ解体していった」と、自身の半生を省察。その上で、在米日本人については「この国に20年なら20年、30年なら30年生きているうちに、自分の内部に何かが生成し、何かが解体しているのを、やがて意識するようになる」と考察し、移民初期の出稼ぎ時代と同じ濃厚な故国指向性の解体を示唆するのである。
そうした、内なる「日本人」の解体が米国永住を決める要件になり得るのかどうか。内部に生成したものとは何なのか。永住の問題は、米国にどんなに長く住んでも日系人にはなりきれない、在米日本人のアイデンティティーにかかわる問題なのではないかと思っている。(長島幸和)
