【長島幸和】 羅府新報新年号に、昨年亡くなった著名な人たちを振り返る英語の記事が掲載された。その中にはお世話になった日系社会の人もいる。皆その死去を長い間惜しまれる人たちである。その記事を読みながら、弔う家族や親類縁者もなく、惜しまれることのないまま亡くなった人がこの日系社会にもいたのではないだろうか、と思った。それは、孤独死や無縁仏についての記事やテレビ番組を最近よく目にしているからだ。
 日本では孤独死に関する本も多く出版されており、昨年全国で6万8千人が孤独死したという推定も出されている。その中には無縁仏とされる人も少なくないようだ。福島県いわき市で小さな葬儀店を営む夫婦は、誰にもみとられず、引き取る家族などもない中で亡くなった人たちに「お疲れさま」と言葉を掛け、弔っている。米国でもそうした縁者の確認できない人たちの死亡は増えており、全米各地のデータを集計すると、推定で年間最高14万8千人にも上るという。
 ロサンゼルス市のエバーグリーン墓地には多くの日系人が眠っているが、その一画に、身寄りのない日本人や日系人の遺骨が埋葬された「無縁照光塔」と名付けられた慰霊碑がある。1984年、日本人移民100周年の折に建立された。メモリアルデーには毎年、日系各宗派の主任が慰霊法要を行っている。
 そうした無縁の人たちを弔い、慰霊し、追悼する意味について、禅宗寺の小島秀明主任は、苦労した先人たちの御霊に手を合わせることの大切さを指摘するとともに、その営みは、より広い慈悲の心を育むと説く。
 確かに、自分とは直接縁のない先人たちの生や、彼らが抱いていたであろう夢に思いをはせることは、今この世に生きている人々への慈しみの心を生むように思う。そしてそれは、どのようなものであれ、自分の人生を温かく受け入れる気持ちにもつながるような気がする。
 羅府新報の記事に触れられた、日系社会のお世話になった人との時間を思い起こしながら、今の日系社会において、孤独死や無縁仏といったケースが一体どれほどあるのか、ひとり思いをめぐらしている。(長島幸和)

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