最近、「IQ」より「EQ」という言葉を耳にすることがある。感情や場の空気を読み、相手との距離感を測る能力のことだ。言ってみれば、「社会的知能」のようなものである。
長く政治の世界を見ていると、「頭の良さ」と「空気を読む力」が、必ずしも一致しないことに気付く。典型例としてよく語られるのが、リチャード・ニクソン第37代米大統領だ。
ニクソン氏は極めて頭脳明晰な政治家だった。外交・安全保障の知識も深く、中国との関係改善を実現した戦略家でもある。だがその一方で、強い猜疑心と対人不信を抱えていたといわれる。政敵だけでなく、側近やメディアに対しても過剰に反応し、自ら孤立を深めていった。知性と社会的知能は別物なのだろう。
逆に、「空気を読む力」に極めて長けていた政治家として思い浮かぶのが、田中角栄元首相である。
田中氏は、有名大学卒でもなければ、官僚エリートでもなかった。だが、誰が不満を抱いているか、誰に声をかければ場が動くかを瞬時に察知する能力に長けていた。永田町では、こうした能力の方が、試験秀才型の頭の良さより強い場合がある。
新聞記者の世界でも似たところがある。
社会的知能が高い人間ほど、「何を書くか」だけではなく、「何を書かないか」まで察知している。書けば誰が怒るのか。誰が沈黙するのか。どこまで踏み込めば空気が変わるのか。そうした「言葉にならない情報」を読む能力である。
ある先輩記者は、ある情報について「墓場まで持っていく」と語っていた。組織の中で生き残るためには必要な能力なのかもしれない。だがその一方で、空気を読み過ぎる人間ほど、知らないうちに自分の言葉を飲み込むようにもなってしまう。最近はSNSの影響もあり、「空気」はむしろ強くなったように思う。誰が炎上し、誰が排除されるのかを、皆が互いに監視し合っている。
人間社会は、論理だけでは動いていない。組織には空気があり、沈黙があり、言葉にされない部分がある。時に、IQの高さよりも、その空気を読む能力の方が人生を左右する。もっとも、空気を読み過ぎて疲弊する人間もいる。最後まで「空気」とは無縁に生きる極楽とんぼのような人間もいる。どちらが幸福なのかは、最後まで分からない。(高濱 賛)
