「市民感覚」という言葉を最近、日本のメディアでよく目にする。
検察当局は、小沢民主党幹事長の政治資金規正法違反容疑を証拠不十分ということで、不起訴にした。これに「市民感覚から言っておかしいんじゃないの」と疑義を唱えたのは、「検察審査会」という日本独特の組織だ。
戦後アメリカの陪審員制度にヒントを得て各地の地裁に設けられた検察の公訴権を監督する、くじ引きで選ばれた、法律とはまったく素人の市民11人からなるパネルだ。
検察が不起訴にしたケースをもう一度捜査せよと市民の代表が言える組織は、アメリカにはない。陪審員は、検察が起訴した被告が有罪か無罪かを決めるが、検察が起訴しないのはおかしいなどと議決することは出来ない。
もっとも、この審査会も過去60年近く、形式だけの組織だった。それが、09年施行の法改正で決めたことに拘束力を与えられことから実際の公訴権に影響力を持つようになった。いくら検察が不起訴を主張しても同検査会が2回の議決で「起訴相当」を決めれば、強制起訴できるようになった。無論、新証拠や証言が出てこない限り、裁判所で有罪になることはない。その意味では、究極的には、捜査権を持つ検察の捜査力がものを言うことに変わりはない。が、審査会が持つ政治的インパクトは測り知れない。
審査会の議決直後の世論調査では、「小沢は幹事長を辞めるべきだ」が83%にまで跳ね上がった。参院選を7月に控えてさすがの豪腕政治家・小沢幹事長もその座を放り出さざるをえない雰囲気になってきた。
小沢氏のケースはそれとして、「市民感覚」と言えば、もう一つ気にかかることがある。日米間の最大の懸案、普天間移設問題だ。
「市民感覚」では、沖縄県外・国外移設が一番いいに決まっている。が、こと同盟国・アメリカの絡んだ国防問題となると、それだけで決められない。極東の軍事バランスも考えねばならない。
「市民感覚」を慮るのは大事だが、そのために朝三暮四を繰り返す宰相を見ていると、日米安保改定時の岸信介首相の「市民感覚」を無視した決断力が懐かしくなってくる。【高濱 賛】