二世週祭が終わった。今年は、これまで以上に参加した! という実感。
 「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃそんそん」ではないが、踊る阿呆もしてみた。しかし、見る阿呆がいなければ踊るほうの張り合いがない。祭りを主催してイベントを企画する側だけでなく、参加する人がいて、楽しんで盛り上げなかったら成り立たない。
 この数カ月、活字を読む時間がなかったので、飢餓感から立ち寄った本屋で手にした本は金田一秀穂氏の〈「汚い」日本語講座〉。なかなか取り上げられないタイトルだと興味を持った。と思ったが、もしかしたら、お祭り後の片付けのイメージが潜在意識を動かしたのかもしれない。
 若い学者の論文や本で、何を言いたいのか、言葉遣いや言い回しが気になることがあって、最近自分も老いてきたなと思うことが度々あったが、この本はしっくりと来た。言語学者なんだから当然と言われそうだが、そういうレベルの話ではない。
 もう亡くなられたが、霜山徳爾という心理学者がいた。彼の論文は大変美しかった。豊富な語彙の中から、事象の説明にふさわしい言葉を選んでおり、日本語はなんと豊かな表現力を持つものかと思ったものだ。言葉の使い方が何ともいえず文章を美しくしていた。
 一緒に原稿を載せようものなら、穴があったら入りたいようだった。こんなことを若い学者に話したことがある。彼は「論文に美しさは必要ない」と言下に一蹴した。美しさの意味を理解できないから、おかしな論文を書くのだと理解した。
 閑話休題。
 美しい、きれい、華やかの裏には、醜い、汚い暗いイメージが潜んでいる。お祭りで賑わった後の会場は、ごみが散乱している。何事も、華やかさと喧騒のあとには汚れと疲れが残る。
 二世週祭は、お年寄りが、賑やかで楽しみだったと言っていたイメージとは異なって、日系人の集まりではなかった。もちろん、時代や社会の変化に対応して変わるのはいい。二年目の七夕祭りは、凝ったデザインの飾りが参加した。日本文化を現地に伝えるいい機会だったと思う。【大石克子】

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