「あら、また出てきたわ」
友人がマーケットのギフトカードを見せながらつぶやいた。
記録的な暑さの続いた8月のこと、昔13年間同じ職場に居たYさんが71歳で急死し、共通の友人N子さんが後見人であったことから、野辺送りを終えてアパートの後始末を手伝うことになった。
物を捨てられない性格だったらしく、古い手紙、カード、光熱費の請求書から領収書、カタログ、古新聞、夥しい量のペーパーが積み上げられていた。何気なく開いたクリスマスカードの中から未使用のギフトカードがでてきて、偶然それはN子さんがYさんに贈ったものだったことから、ひょっとして…と手紙類を開け始めると、あちらこちらから6、7年程前からのギフトカードが次々でてきた。どれも使われた形跡はない。
「何をあげれば喜んでもらえるのか分からないから、好きなもの必要なものを買ってもらおうと思って彼がよく行くお店のギフトカードを贈っていたのに…」
N子さんは明らかにがっかりしていた。
それにしても、ギフトをもらったときのYさんのうれしそうな笑顔を思い出して、どうして使わなかったのだろうという疑問がわいてくる。幾つものカードの束の中で、贈り主の心と、贈られた人の感謝の気持ちは眠り続けていたのである。
商品を渡さず、代金を前払いしてもらったストアだけが良い思いをしていることになる。
このことから、改めて贈り物について考えさせられた。私たちは案外不必要な、あるいは使い難いギフトを自己満足で人に贈っているのかもしれない。
もうすぐ気の早いクリスマス・ギフトの商戦も始まるだろう。一応は無い知恵を絞って「誰には何を…」と自分なりに時間をかけて買い物をし、贈り物を包み、カードを添える、渡米以来私は楽しい行事としてこの習慣に馴染んできた。買い物に出る時間の無いときなどは種類も多いポピュラーなギフトカードは便利だし、露骨に現金を贈るよりもと利用していたが…。
Yさんのケースは例外かもしれないが、引き出しの中に忘れられているギフトカードは思いのほか多いのではないだろうか。【川口加代子】