丸坊主で、牛乳瓶の底のような分厚い黒縁メガネをかけた田舎の野球少年が、大学進学を機に大都会東京へ出て来てから47年が経った。商社に入社後、三流大学卒とのハンデを抱えながら、「誠実さ」を売りに人一倍努力した。
営業、経理、財務と経て、最後は取締役に就任。当時、重役は決まって親会社からの「天下り」で占められていた中、この元野球少年は、初めてそのサイクルを破り、後に続く社員へ希望の道を作った。
タイトルをもらっても、毎朝6時に家を出発、帰りは常に午前様。週末は、取引先との接待ゴルフでほぼ毎週埋まっており、家族と顔を合わせることはほとんどなかった。
当時、大きな社会問題となっていた過労死を心配した家族は、「そんなに会社のために働いてどうするの? どんなに会社を愛しても、会社は社員を愛してくれないよ」と問いかけた。彼は、こう答えた。
「会社のためだけじゃない。家族のためだ。自分にはたくさんの部下がいる。部下一人ひとりにも、それぞれ守らなければならない家庭があるんだよ」
そんな仕事人間だった元野球少年が、ついに定年退職した。勤続43年。
「終わった」。そうつぶやいた言葉に、家族は思わず涙した。家族や部下の暮らしのため、仕事一筋で生きてきた元野球少年。退職後に「生き甲斐」を見つけられるか心配だったが、「やりたいことリスト」を作成し、今まで出来なかったことに挑戦しているという。
「今日はお母さんの指導の下、洗濯をしました」。今までできなかったこととは、妻の手伝いや家事、掃除、洗濯のことだった。自分で初めてこなしてみて、「大変な仕事だ」と気付いたようで、妻への感謝の気持ちがさらに強まったようだった。
先月、この磁針の欄に「人生のステップ」と題し、日本人夫婦の一生が載っていた。①愛の時代②努力の時代③忍耐の時代④あきらめ、惰性の時代⑤感謝の時代―。
あきらめ、惰性の時代があったかどうかは不明だが、わが両親はついに、「感謝の時代」に入ったようだ。【中村良子】