世の中を見渡せば上があれば下も無限だ。すべての点で自分より気の毒な境遇の人は無数いる。仮に自分が病気であったとしても、もっと重い患者よりはましだ。
 私は腎臓障害のため週3回、一回3時間の透析を受けている。透析日はほぼ終日拘束されるうえ、妻が運転手として付き添ってくれるので、夫婦で時間を拘束されている。健康時にくらべ、たいへんなハンデだ。
 でも世間には幼少にて命を失う人、若くして難病・奇病・ほかの病と闘っている人々も多く、私のように古希を過ぎる年齢まで生命を全うできていることについては感謝こそあれ、不平不満を言えた義理ではないだろう。
 この世のことは「一寸先は闇」であり、先のことは誰にもわからない、神のみぞ知るといわれる。ということは神なら先のことも知っているはずで、神からみればこの世の出来事はすべて必然ということになる。この世の存在と過去・現在・未来はすべて神のもとで必然であり、偶然の出来事などありえないということか。
 例えば今、私がこの駄文を書いている行為も初めから、そうすべく決まっている筋書きであり、私の一生はすべて決まっている筋書き通りというわけだ。
 そうなると、私がどれほど努力してもすべて無駄な抵抗ということになるが、私は自分の人生は「いつも新しい何かに興味を示し、好奇心と前向き発想」を信条とした生き方をする筋書きになっていると勝手に思い込むことにしている。
 幸福の女神より不幸の悪魔に出会う機会の方がはるかに多いのが現実だろうが、それも決まっていた筋書きだったらやむを得ないことで、もっと悪いことになる運命でなくて良かったと感謝すればよい。
 「人事を尽して天命を俟(待)つ」という言葉がある。「人事を尽す」のが自分の運命の筋書きであると信じ、そして「天命を俟(待)」てば、どんな結果でも甘受できる。ただし「人事を尽くす」時点では、人間として出来るかぎりのことをし、ベストを尽くすことが大前提であることは当然のことだ。(実際はなかなかそこまで悟りきるのは至難の技だが…)【河合将介】

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