佐久間艇長の遺書。(4月は同艇長の命日月につきこの日本文を。)明治43年(1910)4月15日、日本海軍第六号潜水艇が広島湾沖で演習中に沈没、艇長以下全14名が殉職した。艇長は佐久間勉・海軍大尉(享年弱冠30)。
艇長と全艇員は艇を浮上させようと排水など手段を尽したが浮上できずやがて有毒ガスのため乗員全員が窒息死するという惨事だった。数日後佐久間艇は引き上げられた。潜水艇の遭難事故は当時欧州でも度々起きた。欧州では引き揚げた艇のハッチを開けると、そこに多くの乗組員の遺体が群がり乱闘の跡すらあった。(近年のロシア原潜沈没事故の時も同様だった)しかし第六潜水艇では佐久間大尉は司令塔で指揮をとるままに息絶え、舵取はハンドルを握るなど各艇員が皆自己の配置に付いたまま絶命しており取り乱した様子が無かった。
さらに佐久間艇長は死期迫る中、ガスが充満し苦しい息の下で薄明かりの下に手帳に遺書を書き残していた。遺書には明治天皇に対し潜水艇の喪失と部下の死を謝罪し、次にこの事故が潜水艇発展の妨げにならぬよう願い、事故原因分析と処置を記した後、部下が最後まで忠実に任務を尽したことを、最後に天皇に対し部下の遺族の生活が困窮しないようにと懇願していた。
国内の大きな感動は報道されやがて全世界に広がった。各国からは多数の弔電が届いた。米国議会議事堂には遺書が原文のままコピーされ英訳を添えて丁重に陳列され、国立図書館には遺言銅版が陳列された。英国王室海軍館には今も佐久間の資料が展示され続けている。
佐久間大尉の遺言 「謹ンデ陛下ニ白(モウ)ス。我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ。我ガ念頭ニ懸ルモノ之レアルノミ」さらに「左ノ諸君ニ宜シク」として斉藤海軍大臣ら幹部、兄、恩師らの名を記し「気圧高マリ鼓マクヲ破ラルル如キ感アリ、十時三十分呼吸非常ニクルシイ。ガソリンヲブローアウトセシ積リナレドモ、ガソリンニヨウタ。十二時四十分ナリ」と記し絶命した。
夏目漱石は感動し遺書を激称。反戦歌人と言われた与謝野晶子ですら艇長の死を悼み歌った。「海底の水の明りにしたためし永き別れのますら男の文」。かくのごとき日本人がいた。【半田俊夫】