懐かしい羅府新報を手にする第14区のホゼ・ウイザー市議。昨年の市議会区境界線の再編成により、小東京やボイルハイツを含むロサンゼルス・ダウンタウン一体を管轄する

 10年ごとに再編成される市議会区境界線で昨年、ボイルハイツやアートディストリクトをはじめとするダウンタウン地区とともに第14区に含まれた小東京。同区を代表するのは、メキシコで生まれ、3歳で米国に移住、家族を支えるため10代で始めた小東京でのアルバイトを通じ出会った日本人らに支えられ、無限の可能性を見いだしたホゼ・ウイザー市議。その生い立ち、日系社会とのかかわり、市議としての抱負を聞いた。【取材=中村良子、写真=マリオ・G・レエス】
 
人生変えた日本人との出会い
 
幼少期のウイザー氏について語る小東京の商店オーナー、清宮正道さん

 「兄が羅府新報の印刷部に勤めていたのがきっかけで、小学校6年生から新聞配達を始めたんだ。輪転機から刷り上がったばかりの新聞をこうやって丸めてね、緑色の輪ゴムをはじっこに付けて、配達用のバッグ2つにパンパンに詰め込んで小東京とボイルハイツに向かったよ」
 メキシコのサカテカスで生まれ、1970年代初頭、3歳で家族とアメリカへ移住したウイザー少年。小学校レベルの教育しかない父親と母親は、ガーデナにあったスプリング製造工場と、ダウンタウンにあった冷凍食肉加工会社にそれぞれ勤め、6人の子供を育てるため懸命に働いた。
 ウイザー少年は、学校が終わるとその足でボイルハイツから小東京へ向かい、自分の体より大きな配達用バッグを前と後ろに2つ抱え日系家庭を回った。「ボイルハイツで最初に行くのは決まって敬老引退者ホーム。あそこにはたくさんの購読者が住んでいるから、まとめて新聞を降ろせるんだ」
 常に笑顔で、明るく、前向きに生き生きと羅府新報社から飛び出す姿は、周辺で寝起きしていた路上生活者をはじめ、小東京の日系人ら多くの人気ものだった。
 「11歳という若さで仕事をしなければならない自身の境遇を恥じている様子はまったくなく、彼は逆にそれを誇りに思っているようだった」。そう話すのは、当時2街とロサンゼルス通りで商店を営んでいた清宮正道さん。
 「羅府新報を定期購読していなかったから、いつもオフィスから走り出す彼を見かけては1部購入していたんだ。確か、1部25セントとかだったと思うけど、お金を渡すと彼は決まってコインを宙にポーンと投げてキャッチしていたよ。仕事を楽しんでいる様子だったね」。その働き振りを見ていた清宮さんはその後、「自分の店でアルバイトしてみないか」とウイザー少年に声をかけた。
 「当時(80年代初め)、羅府新報では2週間で27ドル50セント稼いでいたんだけど、マサの店は時給2ドルだったから飛びついたよ」。ウイザー少年は新聞配達の仕事を弟のジミーに譲り、清宮さんのレンタルビデオショップでアルバイトを始めた。
 
「大学進学」という選択肢
 
 「マサは、働いている間も宿題をやらせてくれたんだ。『仕事の前にまず宿題をやりなさい』ってね。宿題をやってお金が払われるなんて、ラッキーなことはないよね」
 当時、ウイザー少年が2ベッドルームの小さな家に8人で生活していたことを知っていた清宮さんは、「家では勉強する場所も、時間も、余裕もないだろうと思った。だったら、静かな店でやらせてあげようと思ってね。店もそんなに忙しくなかったし」と当時を振り返る。
 
大学進学、市議になるまでの道を語るウイザー氏

 同級生が遊んでいる放課後のほとんどを小東京の商店で過ごし、家には寝るためだけに帰る程度だったそんなある日、「高校卒業まで雇ってほしい」と清宮さんに頼んだ。当時通っていたルーズベルト高校にギャングが増え治安が悪化したため、同じくボイルハイツにある私立のカソリック高校、サレジオへ転入するためだった。
 「サレジオ高校の月80ドルという授業料は、当時両親には払えない額だった。だから、自分で稼がなければと思ったんだ」という。清宮さんはこの時、「彼は他の子とは違う」と、その「可能性」に気付いたという。
 一時的に商店を閉めなければならず、給料を支払えなくなった時は、清宮さんが授業料を支援した。ウイザー少年は働きながら勉強し、平仮名も習った。清宮さんと将来についても語り合った。テストの結果や成績表を持ってきては、「マサ、僕は頭いいんだよ」が、当時のウイザー少年の口癖だった。
 将来は清宮さんのように商店を持ってお金を稼ぐのが夢だと言ったウイザー少年に対し清宮さんは、「本当に頭がいいのなら、普通の人ができない政治家を目指しなさい」と言うと、そのアイデアがあまり気に入らなかったらしく、2週間、その話をしなかった。
 しかしある時、「マサ、僕はどうして政治家になるべきだと思う?」と聞いてきた。清宮さんは、「政治家になることで、自身が育ったボイルハイツなどイーストロサンゼルスをよりよい地域に変えることができる。ただ、誰もがなれるわけではない。なれなかった時のバックアッププランとしてロースクールに行ったほうがいい。政治家がたとえだめでも、弁護士としてしっかりと生計を立てることができるから」と答えた。
 黙って聞いていたウイザー少年に続けて清宮さんは、「大学を卒業したら、必ず故郷のロサンゼルスに戻ってきなさい。ここなら、みんながお前のバックグラウンドを知っている。またこれから先、人生の分かれ道に直面したら、必ず難しい道を選べ」とアドバイスした。
 サレジオ高校の司教やカウンセラーの支援と理解もあり、考えてもいなかった「大学進学」という道を目指す。
 
「普通の人ができない」職へ
 
 「人生の分かれ道に直面したら、必ず難しい道を選べ」との清宮さんのアドバイスに従ってか、ウイザー氏は奨学金を得て、UCバークレー校で学士号を、プリンストン大学で修士号をそれぞれ取得。その後、清宮さんとの約束通りロサンゼルスへ戻り、UCLAのロースクールを卒業。土地利用事業の弁護士を経て、ロサンゼルス統一学校区の教育委員会へ。
 教育委員会では、自身の経験を生かし、「すべての子供たちに質の高い教育機会を」と訴え、学校の満員状態を解消させるため、向こう8年間で160の学校を新設する計画を実行した。
 05年、市長に就任したアントニオ・ビヤライゴーサ氏の後を引き継ぐ形で、地元ボイルハイツを管轄区に含む第14区の市議に37歳という若さで就任した。「低所得者が多く住むボイルハイツで育ち、今でも同地に住む。(社会を変えたくて)社会奉仕の道を目指していた」と言うように、就任以来、同地に計20億ドルをかけた公共開発事業を実現した。
 「人々の生活の質を上げ、コミュニティーを助けることができる仕事に就け、とても幸せに感じている。夢のようだ」というウイザー氏。「両親は、高校を卒業したら自分に働いてもらいたいと思っていた。両親を悪く言うつもりはまったくないが、小学校教育しかない彼らにとって、大学とはどんなところなのか分からなかった。でも、マサをはじめ、高校の司教やカウンセラーが、自分にも『大学進学の道がある』『社会を変える仕事に就くことができる』ということを教えてくれたお陰で、今の自分がある」
 
歴史保存とダウンタウン開発
 
 人生の半分を小東京で過ごした経験から、日系の貴重な歴史や文化の保存には深い理解を示し、それを優先課題に上げる。「かつてダウンタウンの治安が悪かったころ、小東京だけは安全で、まとまりのある地域だった。ダウンタウンの開発が急速に進んでいる今、小東京には繊細なアプローチが必要。開発が小東京の街並みに沿ったものであるか、また歴史や文化に有害なものではないか、そのつどコミュニティーの声を聞きながら対応していきたい」
 また、小東京協議会などといった地域の声をまとめる団体が活発に活動していることを称賛。「市庁舎やメトロ理事会でも、何度となく小東京の住民が意見を述べる姿を見てきている。小東京を代表する市議として、彼らの意見に耳を傾け、市庁舎内で彼らの『声』を代弁したい」
 早ければ今年末に工事が始まると言われるリージョナルコネクター事業。1街とセントラルの角に駅の建設が予定されており、周辺のレストランや商店オーナーは工事中に考えられる営業への障害を心配する。ウイザー氏は、彼らの声を「当然の心配」と理解し、「障害をどれだけ最小限に抑えられるかが課題」とした。その上で、大きな障害なく順調に進むファイナンシャルディストリクトにあるグランドウィルシャーホテルの解体作業を例に、「方法は必ずある」とした。
 昨年の市議会区境界線再編成で、14区はダウンタウンのほぼ全域を管轄区に含むようになった。今後の課題として(1)経済発展と変革に力を入れる(2)公園や学校の建設、歩道の安全を高め、ダウンタウンを住みやすい地区にする(3)小東京、ボイルハイツ、アートディストリクト、シビックセンター、ブロードウエー、サウスパーク、ファッションディストリクト、ファイナンシャルディストリクトなど、それぞれユニークな特徴を持つ各地区同士を結びつける―を目標として上げ、近日中にダウンタウン全域のビジネス改善地区(BID)の全体ミーティングを開く予定。また、ボイルハイツと小東京の文化交流などを今後企画していきたいとした。
 
今も続く「叔父と甥」の関係

出会いから30年がたった今でも、ウイザー氏と家族ぐるみのつき合いがあると話す清宮さん
  
 現在、ロサンゼルスとサンペドロ間の1街にある「LAチキン」と、サンペドロとセントラル間の1街にある「ファミリーマート」の2店舗を経営する清宮さんは、ウイザー氏が市議として小東京を代表することになったのは、「偶然」と言いつつも、「初めて会った時から、なぜか分からないが『彼ならできる』と信じていた」という。
 清宮さんが感じる「叔父と甥のような関係」は、2人の出会いから約30年がたった今でも続き、ウイザー氏の結婚式にも参列した。また、毎年クリスマス前にはウイザー氏の家族と過ごすことが恒例となっている。
 「人生の分岐点に直面するたびに小東京の店に顔を出してアドバイスを求めてきたよ」。そう話す清宮さんは、過去にウイザー氏を東京や箱根、広島などに連れて行った。同氏が将来立派な政治家となり、有力者と肩を並べ国際情勢などの話をした時、胸を張って日本の話ができるようにとの配慮からだった。
 ウイザー氏に伝えてきた数々のアドバイスは、「自分の考えではなく、子供のころ習っていたサッカーコーチの『何事も懸命に取り組めば、結果がどうであれ達成感を得られる』という教育方針」という清宮さん。「今となっては、彼(ウイザー氏)の中に少しアジア人の血が入ってるんじゃないかと思うね」と、目を細める。
 
小東京を代表する市議として
 
 「幼い時から働いていた経験から、何事にも懸命に取り組む大切さを学んだ」というウイザー氏。メキシコや日本のみならず、子供のころからさまざまな文化に囲まれて育ったおかげで、「互いの違いを尊重し、理解することができるようになった」。異なった文化や人種背景を持った人とかかわる市議の仕事の基盤、力添えとなっているという。
 
昨年8月、二世週祭のグランドパレードに参加したウイザー市議一家

 昨年8月に小東京で開催された二世週祭には、第14区の市議として家族とともに参加した。パレードで子供たちが着ていた浴衣は、清宮さんのビジネスパートナーが日本で買ってきてくれたものだ。「今も昔も、子供たちを連れてボイルハイツから小東京にはよく遊びに行っている。子供たちも、日系の文化を尊重しているようだ」
 強いつながりを感じる小東京を代表できるのは、「自分にとって、久しぶりに『故郷』に戻ってきた感じ」。子供のころ駆け回っていたこの歴史と文化溢れる小東京を代表できることに、「大きな喜びを感じている」。
 治安が悪かったボイルハイツに移民の子として育ったウイザー氏にとって、小東京は「オアシス」でもあった。その貴重な存在を後世に残していくために、「日系コミュニティーの声には必ず耳を傾ける」と約束する。

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