日本の暦では、季節は春を迎えた。節分は、季節の移り変わりのとき、立春、立夏、立秋、立冬の前日のことだが、豆まきの節分だけが知られている。
今年の節分は日曜日で、スーパーボウルと重なった。試合前「鬼は外、福は内」と鬼打ち豆をまいていただいた。初めてのことだった。豆まきの準備やお膳立てはしてきた。豆をまく役はしたことがなかった。
日本にいたときは、雪が残っていても日がちょっとずつ長くなってくると春が近いと感じたものだ。畑や田んぼのぬかるみを歩きながら、雪の間からふきのとうが顔を出してくるのを見て、寒さに負けない自然の力強さを思った。
入学式には桜はもちろん梅も咲かなかった。4月末になってやっと梅と桜が同時に咲いた。山にはまだ雪が残っていても、春の訪れと芽吹く季節の息吹に心が躍った。作物や樹木が生き生きと育ち、やがて枯れていって雪に閉ざされる。こんなふうに季節の移ろいを自然に実感できた。
この自然も近年、天候不順で少し変わってきているが、基本的に四季はある。このLAでは、自分から向かってカレンダーの月に季節を重ねていかないと、区切りがない。ローズパレードだ、スーパーボウルだと、イベントをとおして分かる季節はあるが、それは自然の営みとは違うものだ。
風流とか情緒とかには疎いが、40年、季節のある日本で生活してきた身には、ふきのとうが出る頃だ、うどが、きのこがと思っては、それらの周りの景色を思い浮かべてしまう。白樺の林を抜けて蕨を取った。近くの沼地には水芭蕉が咲いていた。赤や黄色に映えた山の美しさが茶色に変わっていくと、これが白くなるのも近いと思ったものだ。この景色が身近でなくなって20年。日本の季節を感じさせる行事に参加したくなるのは、自然の成り行きなのだろう。
周りの景色が違う中で正月行事、豆まき等の日本の行事は、他人種にも受け入れられているように見える。どこまで理解されているのかわからないが、と思いながらも、お雛さま作りに追われている。先人たちも、きっと同じように感じていたのかもしれない。【大石克子】