犬や猫、イルカといった情緒水準の高い動物と触れ合うことにより、血圧やストレスレベルが下がり不安や警戒心が軽減、自信が持て人との交流を図れるようになるとして、医療や教育、福祉などの現場で積極的に活用されている動物介在療法(Animal Assisted Therapy)。午年の今年は、その大きな体、優しい目、温かい体から伝わる馬の癒し「乗馬療法」について紹介します。
【取材・写真=中村良子】
土曜日の朝、母親からヘルメットを手渡され、手話で「行くよ」と声をかけられると、満面の笑みを見せる松下ニコールちゃん(11)。そのヘルメットが、楽しみにしている乗馬の時間を意味することをよく分かっている。
ニューポートビーチ在住の松下ビンセント、ゆき代さん夫妻の長女ニコールちゃんには、生まれつき聴力と言語、知的障害がある。誕生から7年という長い間、正式な病名が分からず、数えきれないほどの検査を繰り返す不安な年月を過ごした。
そして2009年、遺伝子科の医師からついに病名が判明したことを知らされる。それは、生まれつき染色体の7番が欠損する「染色体7q欠損症」。世界で50症例ほどしかないという非常にまれな染色体異常だ。
発育に遅れもあり、理学療法、作業療法、言語療法を受ける中で、松下夫妻は「同じセラピーでも、生き物と触れ合う楽しさを味わってもらえたら」との願いから、2010年、医師の推薦状をもとにニコールちゃんに乗馬療法を始めた。
「障害持つわが子のために」
親心から始まったセンター
ロサンゼルス・ダウンタウンから南へ約55マイル、オレンジ郡南部に位置する自然豊かなサンワンカピストラーノに、馬との触れ合いを通じ、障害を持った人の心や体に癒しを提供する「シェイ・センター」(26284 Oso Road)がある。
先天性脳性まひの息子マイケルさんのセラピーのため、ルーイス夫妻とソーシャルワーカーで女性騎手のフラン・ジョスウィックさんにより1978年に設立された。「障害のある息子が少しでもよくなるために」と、子を愛する親心から始まったセラピーは現在、年間650人以上もの障害者に癒しと笑顔、そして大きな希望をもたらしている。
同センターに通う障害者は2歳から80歳と幅広く、自閉症がもっとも多い。続いて脳性まひ、発育遅延、ダウン症、外傷性脳損傷など、病名は60種類以上といい、年間800人以上にも上るボランティアに支えられている。
PATHインターナショナル(前北米障害者乗馬協会)認定の同センターのプログラムには、乗馬療法とヒポセラピーがある。乗馬療法は認定されたイストラクターの指導の下、障害に応じて身体、認知、感覚のリハビリを行い、一方ヒポセラピーは、免許を持つ理学療法士、作業療法士、言語療法士が馬を使用し一対一で行う。
シェイ・センターには現在、セラピー用に訓練されたクォーター馬をはじめとする15種計20頭のセラピー馬がおり、そのすべてが同センターの活動に賛同した団体などからの寄付だ。中でもミニチュアポニーの「ベニー」は人気者。大きな馬を怖がる子どもたちや、身体的に馬に乗ることができない障害者に優しく歩み寄る。車いすを使ってベニーを散歩するセラピーもある。
同センターは西海岸で唯一、障害者のためのフィットネスセンターも完備。インストラクターの養成教育も行う。同センターで認定されたインストラクターはほぼ全州および日本を含む海外15カ国で活躍しており、施設、プログラムともに全米トップ5に入る機関へと成長した。
運営予算は年間240万ドルで、その半数以上はファンドレイジングなどのドネーションでまかなわれる。残りは助成金や受講料で、寄付された1ドルのうち74セントがセラピープログラムに充てられている。
乗馬療法
身体、心理、社会的効果
障害者にスポーツ体験提供
ニコールちゃんのセラピーは、厩舎内でのニンジン切りから始まる。ボランティアの助けを借りながら、1つひとつカットしていく。クラス終了後にお世話になった馬にあげるためだが、これもセラピーの一環。自立心を高めるとともに、アクティビティーを通じ社会性を身に付ける。
発育の遅れなどから、乗馬療法に通い始めのころは歩く時のバランスが悪く、きちんと馬の上に乗ることができなかった。作業療法士の指導の下、馬の背に乗りながら腹部を鍛え、馬上でバランスをとる練習を繰り返した。
犬やイルカなど、さまざまな動物介在療法がある中、乗馬療法の特徴は、「背に乗ることができる」「運動機能の訓練ができる」など、医療、教育、スポーツ、レクリエーションの4要素がそろっていること。
歩く時の馬の背の動きは、「上下」「左右」「前後」と人の歩行と同じ三次元の動きをするため、歩く馬の背に座っているだけで歩行時と同じく腹筋と背筋を鍛えることができる。45分のセッション中、障害者の腰は馬の背で約3000回回転するといわれ、一般の歩行訓練に比べ効率的。
また、知的、身体能力が限られる障害者の多くは、一般のスポーツに参加できる機会が少ない。しかし乗馬療法はそういった障害者に「スポーツ体験」を提供でき、セラピーでありながら乗馬という「趣味」を楽しむことができ、子どもたちの自尊心向上を助ける効果もある。
さらに、馬に「進め」や「止まれ」などの指示を出す訓練を通じ、障害者は情報を頭で処理する能力を鍛えられるほか、コミュニケーション能力を高め、人や馬との触れ合いの中で社会性を身に付けることができる。
能力を最大限に引き出し
日々の生活に役立てる
2010年から約2年間にわたりヒポセラピーで作業療法を続けたニコールちゃん。馬上でバランスを鍛え、姿勢もよくなった。体の筋力がついたおかげで、歩行時のバランスもよくなった。
2年前にヒポセラピーを卒業し、現在は乗馬療法のグループセッションに通う。ニコールちゃんのクラスを担当するインストラクターのアシュリー・ハサウェイさんは、「ニコールを含め、生徒たちには乗馬療法で得た(運動やコミュニケーション)能力を、それぞれの生活に役立ててもらい、彼らの自立を手助けすることがわれわれの使命」という。
ニコールちゃんはこの1年間で、「インストラクターの指示に従う」「与えられたアクティビティーをやり遂げる」など、コミュニケーション能力が大きく上達した。言葉を発せられないニコールちゃんのために、「GO」と口で言う代わりに馬の首筋をポンポンと叩くことが「進め」のサイン。なかなかできなかったこの合図も、また「止まれ」で手綱を手前に引く動作も、今では馬の横にいる助手の助けを借りずに行うことができる。
4年前に乗馬療法を始めてから愛娘の成長を見守ってきた母ゆき代さん。「今までは、ニコールが楽しみながらできることがほとんどなかった。でも乗馬療法に出会ってから笑顔をよく見るようになり、本人が楽しんでいるのが伝わってくる。乗馬療法はきちんとしたセラピーでありながら、楽しみながら没頭でき、本人にとっては趣味のようになっていてとても嬉しい」
乗馬療法を始めたばかりのころは、体の大きな馬を怖がることもあったが、今では率先してニンジンを与えられるようになった。「世話をされるばかりだった彼女に、初めて世話をする相手ができた。これを機に、少しずつ自立心が芽生えてきたように思う」
松下さん夫妻にとって、ニコールちゃんのために馬を飼うことが将来の夢だ。
松下夫妻
「親がしっかりしなければ」
先輩から学んだ教訓生かす
誕生の翌日に行われた新生児検査で、ニコールちゃんの聴力に異常が確認された。半年後の再検査で医師から正式に「難聴です」との診断を受けた時は、人生のどん底に突き落とされた気持ちだった。
健康に生まれた松下夫妻には、音が聞こえない世界がまったく想像できなかった。無音の世界を考えるだけで、とてつもない不安に襲われる。「この先、この子は一体どうなるのか…」。まだ何も知らないわが子を見つめ、将来を悲観する日々が続いた。
正式に病名が判明するまでの7年間、さまざまな症状がニコールちゃんに襲いかかる。中でも大変だったのは原因不明の発作。生後4カ月のころだった。お風呂から出た後、着替えをさせていた時に突然ニコールちゃんの体が硬直し、嘔吐を繰り返した。緊急病院へ搬送されたが原因は分からず「様子を見ましょう」と帰された。
その後、脳波記録(EEG)やMRIで検査をしたが、結局発作は4年間続いた。現在でも原因は分からぬままだ。
発育にも遅れがあり、一時は車いすも覚悟した。歩き出したのは6歳。一方で、病名は分からないまま。その間、神経科、遺伝子科、整形・形成外科に通い続けた。
09年に病名が判明した時、医師から「病気は突発性。誰にも防げないことだった」と言われ、ゆき代さんは、出産以来ずっと心の中にあった罪悪感がすーっと薄れていくのを感じた。
「長いこと、妊娠中に私が何かしてしまったのが原因で娘に影響が出てしまったと思っていた。取り返しの付かないことをしてしまったと、ずっと自分を責めていた」
障害の有無にかかわらず、わが子の幸せを願う一方で、「障害児の親」になった自分の精神面との闘いもあったと振り返る。「自分が心の奥底に持っていた障害児に対する偏見から、最初はなかなかニコールのことを周りの人に打ち明けられなかった」
気持ちに変化が表れたのは、障害児を育てる親のための日本語支援グループ「手をつなぐ親の会」(JSPACC)に入会し、前向きに、そして力強くわが子を育てる先輩たちに出会ってからだ。
「子どものために、自分たちがしっかりしなければ」と学び、今はニコールちゃんの自立に向け、最低限の意思疎通とトイレなど身の回りのことができるようになるよう、自宅でも楽しくトレーニングをしている。
「障害があっても、彼女にもできることが必ずあるはず。馬の力を借りて、限られた能力を最大限に生かすことができれば嬉しい」