母の卆寿を祝いに里帰りした6年前の早春の東京。着いたら都が桜の開花を宣言。僕ら夫婦も母国の同胞の桜狂想曲に加わり好天の都内各地で満開の桜を楽しんだ。桜を愛で心奪われる日本人は何ともたおやかな情緒と文化の民族かとつくづく感じ入った。
 東京も桜が多くソメイヨシノ中心に色や咲き方、樹々の枝ぶりと素晴しい日本の美だった。ある日歩いたコースは永田町から桜並木の最高裁、尾崎記念館、桜田門、英国大使館から皇居の緑と水色のお堀沿いに千鳥ヶ淵の長い桜並木トンネル、最後は靖国神社と見事だった。別の日は隅田川の両土手、帝釈天の桜祭り、矢切の渡し土手など。
 こんな中に「特筆の桜」と言える一本があった。それはその年、卆寿の母が住む文京区の実家の庭で見た満開のソメイヨシノの大木だった。家に桜などあったか? と大きさと色と枝ぶりの見事さに驚いて思わず縁側から降りて樹の根元に行って見上げたが、何とも壮大な枝ぶりと巨根で青空に開花し春の陽に広がり照り映えていた。
 一体いつからこんな桜の巨木がここに? と思ったが、母の話では終戦の1945年、焼け跡にほんの30センチほど地上に出ていたか細い桜の幼木をかわいそうと家に持ち帰り庭の一角に植えたのが63年経ってこのように大きく育ったとのことだった。そこで僕は考えてみたら、40年近くたまたま桜の季節には実家に帰っていなかった。だからこの大木は初めて見たのだ。
 そういえばおぼろげな記憶では子供のころ庭のあの辺に確かにひょろりと細く小さな木が頼りなげに立ち春先の寒い時期にわずかな花がいかにも心細く寂しげに咲いていた。何の木か関心も無かったが光景は確かに記憶にあり、細い幹の色も薄赤っぽかった若木だったと思い出せる。
 計算するとその終戦の年に幼木を植えたという母は27歳のまだ若い母だったわけだ。記憶には無いが東京空襲を生き延びることができた僕は2歳半ほどだった。
 この桜木の63年の時空の感慨にその場を動けなくなり、木を見上げながら思わずウーンと唸ってしまったのだった。その年90歳の母はこの木があれば何所に出かけなくてもいいの、と言っていた。その年の里帰りで特筆の桜がこの桜の大木であった。【半田俊夫】

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