Conferment 日本政府は29日、平成27年(2015年)春の叙勲受章者を発表した。在ロサンゼルス日本国総領事館管轄区域では元ロサンゼルス・ドジャース社長兼オーナーのピーター・オマリーさん(77)に旭日中綬章、元日米文化会館理事長で現在ターミナルアイランダーズ会長などを務めるミノル・トウナイ(藤内稔、86)さんに旭日小綬章、元南加庭園業連盟会長の小山信吉さん(80)に旭日双光章がそれぞれ授与されることが決まった。
 小山さんは5月15日に東京で行われる天皇陛下拝謁および勲章伝達式に出席して受章し、オマリーさんとトウナイさんに対する伝達式は当地において実施される予定。

 ▽各受章者の功労概要および経歴は次の通り。
【旭日中綬章】
元ロサンゼルス・ドジャーズ社長兼オーナー
ピーター・オマリーさん
日本と米国間の文化交流促進および日本野球界の発展に寄与

ピーター・オマリーさん
ピーター・オマリーさん
 ピーター・オマリー氏は、1937年12月12日、ニューヨーク州ブルックリンで出生。61年にペンシルベニア大学を卒業、翌62年にドジャースに正式入社し、67年副社長に昇任、70年社長に就任。同球団を売却した98年3月までの28年間を社長兼オーナーとして務めた。
 同氏の初訪日は1956年10月で、両親に連れられ日米親善試合を観戦した。同氏は、その時の日本人選手のマナーの良さ、惜しみないファンへのサービス、誰に対しても笑顔で迎える姿を今も鮮明に覚えており、その印象が日本に対する関心のきっかけとなった。
 その後ドジャースが地元ロサンゼルスのファンに愛されるチームとなり、同氏が日本の友人たちと良い関係を作ることができたのも、このときの印象が強く残っているからだとふり返る。その結果として、「友好」「相互理解」「親善」という価値観は、同氏が長年大切にするものとなり、社長就任以降の28年間、そしてそれ以降現在までの17年間にわたり、野球を通して日米の友好親善に多大なる貢献をしてきた。
 同氏は、1998年までの間に、ドジャースのキャンプ地であったフロリダ州ベロビーチ市にあるドジャータウンやカリフォルニア州ロサンゼルス市にあるドジャー球場に日本プロ野球界の選手、監督、コーチや球団関係者を20回以上招き、アメリカ大リーグ野球の本質を学ぶ機会を提供したことに加え、リトルリーグ、高校野球、大学野球のチームや関係者らもドジャータウンやドジャー球場に招いた。また同氏自らも約85回の訪日を繰り返す中で、日本野球界と親交を深め、日米の友好親善に寄与した。さらに同氏は、ドジャースの本拠地ロサンゼルスにおいても、日系人コミュニティーとの友好を考慮した。
 1995年には、日本人選手としては30年ぶりの大リーグ選手となる野茂英雄投手の獲得に成功し、多くの日系アメリカ人ファンを喜ばせ、日本からも多くの野茂ファン、野球ファンを現地に引き寄せ、日系人コミュニティーとの友好促進にも貢献した。同氏は、球団経営から退いた後も日本との交流を続け、2003年から09年の間に早稲田大学で実施された「アイク生原&ピーター・オマリー記念スポーツマネージメント講座」の設立に尽力、日本の若者たちの教育面にも寄与した。

【旭日小綬章】
ターミナルアイランダーズ会長、元日米文化会館理事長
ミノル・トウナイさん
米国における日系人社会の地位向上および日本と米国間の相互理解の促進、友好親善に寄与

ミノル・トウナイさん
ミノル・トウナイさん
 ミノル・トウナイ氏は1929年2月6日、約3000人の日本人移民の漁師により栄えたカリフォルニア州ターミナル島で生まれた。34年に家族で日本を訪れ、8カ月滞在後、両親と共に再度ターミナル島へ戻り、36年にサンペドロへ引っ越した。同氏は学生時代、剣道を学び、毎週土曜日にはカンプトン学園日本語補習校で日本語を学んだ。
 太平洋戦争の始まりとともに、現地のリーダー的存在だった父が逮捕された後、1942年5月には家族と共にサンタアニタ競馬場へと強制立ち退きを命じられ、その後コロラド州アマチ収容所に収容された。
 終戦後はロサンゼルスへ移り住み、高校を卒業、その後アルバイトで学費を稼ぎカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)に入学したものの1年半で中退、再び働き始めたところ、1950年に朝鮮戦争が始まり、徴兵された。同氏は衛生兵としてまず北朝鮮・ロシアからの侵攻に備えるため、東北地方に派遣された。52年2月には韓国へ派遣され、最前線で兵士たちを支え、同年11月に除隊した。再び勉学に励むため、ロサンゼルス・シティー・カレッジの商学部に入学。卒業後、再びUCLAの商学部に入学し、55年に卒業した。その後、会計事務所の簿記係として働き始めた同氏は、主に会計や管理職分野でのキャリアを積み上げ、87年に引退した。
 トウナイ氏は母校UCLAへの寄付金集めをはじめとし、働きながら複数の日系団体の活動に関わり、寄付金調達、日系社会の活性化、日本文化の浸透、日系人の地位向上に献身的に取り組んできた。78年からアマチ戦時強制収容所歴史協会の会長、2012年からはターミナルアイランダーズの会長を務めたほか、2002年に完成した記念碑、「ターミナル・メモリアル」のターミナル島記念碑委員長も務めた。現在でも日系朝鮮戦争退役軍人団の理事(元会長)、南加和歌山県人会顧問、江住村人会顧問、南加和歌山県人会奨学金委員として精力的に活動を続けている。
 また、表千家同門会米国南加支部の理事、会長を長く務め、現在も顧問として南カリフォルニアにおける茶道の継承に尽力している。日米文化会館の理事を30年以上務め、理事長も務めたほか、全米日系人博物館、アジアアメリカ交響楽団、UCLA財団、日系ブルーインズやUCLA関連の団体で理事として活躍してきた。

【旭日双光章】
元南加庭園業連盟会長
小山信吉さん
在留邦人および日系人への福祉功労

小山信吉さん
小山信吉さん
 小山信吉氏は1934年12月7日、福島県二本松市で生まれた。高校卒業後、父親の経営するスポーツ用品店を手伝った後、59年にウェスト・ロサンゼルスでボーディングハウスを営む祖母と母を訪ね渡米。1年後には帰国して結婚し、東京の証券会社に勤めた。
 その後、68年5月に家族で再渡米し、数カ月のあいだボーディングハウスの手伝いを続けた後、「ガーデナー(庭師)」をめざして修業を始め、70年に独立。以降、ロサンゼルス近郊の広範囲にわたり顧客を抱え、現在も週に4日庭園業の仕事を精力的に続けている。2009年12月には長年の農業発展および日米親善への尽力が評価されて大日本農会より緑白授有功章を受章した。
 渡米後、33歳で庭園業の仕事を始めた同氏は、多くの苦難、苦労を乗り越えながら、庭園業者の地位と福祉向上に奉仕してきただけでなく、多くの日系人団体に所属し、当地の日系人コミュニティの発展にも大きく貢献してきた。
 戦後、庭園業者となった多数の日系人が所属し、会員の支援、地域福祉に取り組んできた南加庭園業連盟の会長を2006年から08年までの3年間務め、現在も連盟の歴史的資料の保存に尽力するなど、精力的に活動している。
 さらに、南加福島県人会会長を務めた同氏は、2008年の同県人会創立100周年の際に記念誌の編集長として情報収集、編集作業に夫人と二人三脚で熱心に取り組み、これらの功績により、当時の福島県知事より特別功労賞を受賞した。
 その他にも、ソーテル日本学院理事長、ベイシティーズ造園業組合長を務め、2014年には昭和会会長として活躍するなど、日系コミュニティーに貢献している。また、これまでの功績をたたえて、2014年に在ロサンゼルス総領事より表彰を受けた。

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