5人は、モンテベロのクワイエット・キャノンで5月3日(日)午後12時半から開かれる表彰祝賀昼餐会に臨む。なお、当日は受賞者へのお祝いのプレゼントは控えるように呼びかけている。
表彰昼餐会の会費は40ドル。申し込みは17日までで、次の住所にチェックを送る。
Amy Tambara
Women of the Year Chairperson
562 ½ W. Riggin St., Monterey Park, CA 91754
問い合わせは、エミ・タンバラさんまで、電話323・722・3897。
▽各受賞者の経歴は次の通り。
呉屋君子さん
86年から日本語学園教師として25年間勤務し、3年前に退職。その間、加州日本語学園協会のクレジットテスト作成委員を務めた。生徒たちを連れて毎年、サウスベイ敬老ナーシングホームを慰問し、高齢者やバザーの手伝いをして社会学習を行った。
99年、真境名本流真境名愛子琉舞道場の会長となる。交付金も授与、アラタニ劇場での公演を成功に導いた。
2002年、北米沖縄県人会の推薦で沖縄県主催のジュニアスタディーツアーに全米から選出された沖縄系の高校生7人を引率して沖縄を訪問した。そこで各国代表の24人の高校生たちに沖縄の歴史、文化、平和のための学習そして社会学習などを習得させ、母県沖縄との絆を深め、次世代の人材育成に貢献した。
04年、北米沖縄県人会婦人部部長に就任。会員の高齢化に伴い小休状態だった婦人部の活性化に率先して取り組み、現在では約200人の会員が毎月、料理教室、クラフト教室、一日バス旅行などと盛りだくさんのスケジュールを組みまた、沖縄県婦人会との交流も積極的に行った。
11年、北米沖縄県人会創立103年目にして初代女性会長として就任、規模の大きい会員数が多いため、会員同士の意思疎通の必要性を実感し、会員の要望や意見を真しに受止めて邁進した。コンピュータークラスを開設、日本語テレビ番組に出演し、講師の新島ナンシーさんとともに沖縄料理を紹介した。そして芸能部の各師範の写真を館内に飾った。
北米沖縄県人会は、東日本大震災の義援金で総額2万4039ドルを集め、南加県人会協議会に寄付し、日本総領事を通して日本赤十字社へ送金された。二世週祭のパレードにも参加した。
11年、5年に1度の沖縄県主催の第5回世界ウチナーンチュ大会に招待され出席。海外から「里帰り」する5000人以上が音楽、伝統芸能そしてスポーツなどと県民も参加しての多彩なイベントで、市町村ごとの歓迎会もあり充実した大会であった。また、琉球大学、芸術大学、国際交流課、沖縄タイムスそして琉球新報へも理事と表敬訪問した。
12年、日本政府と沖縄県主催の「日本復帰40周年記念式典」に招待された。野田佳彦元首相、仲井眞弘多元沖縄県知事そして各国の沖縄県人会会長とも会見し、最後に母校の嘉数小・中学校では6年生を対象に講演も行った。
幼馴染の呉屋茂夫さんとハワイで結婚し、70年にトーランスに移住、一男三女を儲けた。長男のダニエルさんは、茂夫さんの引退後自動車修理会社を引き継ぎ、長女ダイアンさんと次女キャロルさんは公立学校の教師、そして三女のリンダさんは夫の貿易会社を手伝いながら育児に励んでいる。呉屋さんは、孫9人に囲まれて現在もボランティア活動を続けている。
平田喜江さん
1957年に、教会で知り合った夫の留学先である首都ワシントンにあるジョージタウン大学の卒業式に出席するため渡米した。同時にジョージタウンの教会で結婚式を挙げ、米国生活の第一歩を踏み出した。
60年から75年まで首都ワシントンにあるトリニティー・カレッジで、会計補佐として15年間働いた。そして77年から83年までミズーリ州ボルチモアにあるJFCインターナショナルで軍関係の食品売買を扱う会計として6年余り勤めた。
83年、夫の仕事の関係で、カリフォルニア州ロサンゼルスに移住することになり、JFCのロサンゼルス支店に転勤し、輸出入の書類作成担当者として、2000年12月末に引退するまで17年間勤めた。
引退後すぐの01年1月からボイルハイツの敬老引退者ホームでボランティアとして会計補佐とプログラムの補佐として奉仕し、同時に小東京のパイオニアセンターでは理事と会計、事務をボランテアとして勤めている。
平田さんは「『日本人として生まれた私に何か日系社会のために役立つことができたら』と考えて始めたボランテア活動も15年の年月が流れ去り、多くの友人に恵まれ本当に幸せ者と感謝している。この生活を人生の最後まで続けることができたら本望」と語る。奉仕の精神は、結婚生活50年間に学び、引退後に実行できたとし「残り少ない人生を日系社会のために全力を尽くしたいと常に前向きに考えるように努力したい」と抱負を述べている。
マーサ・西中さん
西中さんと夫のウエスリーさん、子供たちはセンテナリーメソジスト教会のメンバー。西中さんの教会での当初の記憶は、沖縄から移住した1920年代、インペリアルバレー農場に移り住んだスペイン語を話す祖母とスペイン語で会話したことだった。祖母の仲間と教会の1世や2世の婦人らの影響を受け、強い信仰と教会に対するサービス精神を教えられた。それら先人の伝統を守って、過去10年間教会のサービスグループであり当地のみならず米国内と全世界にわたって女性、子供、そして若者たちの生活向上のために募金活動を行う婦人会の会長を務めてきた。
西中さんは、センテナリー教会を日本の文化を紹介する場としてまた、コミュニティーの集まりにも門戸を開いて温かく迎える場として周知させる大事な役目を果たしている。カリフォルニアで唯一のクリスチャンハッピコート(法被)をまとったグループで各地で盆踊りに参加する「お盆ホッパーズ」をカリフォルニア州中に広めたことで知られている。
女性や子供たちとその家族を援助する日系のビジネスやダウンタウンの空手道場、音楽家、太鼓、民踊、音頭踊りなど日本文化に興味を持つ日系のビジネスや非営利団体と連携して活動する。これらの活動を教会の小東京コミュニテイ・ヤードセール、骨董品ショー、ホームレスに食事を恵むサービスなどさまざまな活動のリーダーシップを取ることで実現させた。
8月には西中さんと家族は「二世週祭」気分に入り、二世週パレードを含むさまざまな行事の当番を引き受ける。その中で西中ファミリーが毎年行っていることは、日本的な礼儀だとする、パレードの行われる二番街を清掃することだ。
西中さんの日本文化に対する考え方に最も影響を与えたのは、インペリアルバレーで生まれた義理の母、エンジェルさんだった。離婚したエンジェルは7人の子供を育て日本文化とコミュニティーへの奉仕の大切さを教えこんだ。西中さんは、その大切さを義母自らの行動を通して学んだ。西中家のお正月は、家族揃ってエンジェルさんの家に集まって、1日を通して新年のあいさつに訪れるお客さんを迎えて過ごす。朝はお雑煮をそして家族の集まりのお節料理を作り、天ぷらなども振る舞う。
西中さんの家族は、シエラ東部のジューン湖でのキャンピングと魚釣りを楽しむ。その他ラスベガスのカリフォルニアクラブでの週末、そして小東京を歩くことを楽しみにする。西中さんは、カズエ豊春師が指導する日本民踊の会に属する。浴衣や着物を着ることは日常と変わりなく、違和感はないという。
ベニスにある個人病院に勤め、内科と腎臓科の事務マネジャー兼オぺレーションマネジャーとして患者の透析や腎臓移植候補者が適切なケアを受けているかどうかを監督する。
西中さんを知る多くの人は、西中さんについて「日本人が大切に思っている伝統と文化を継承する人であり同時にその文化、歴史、伝統を子供たちに伝え、コミュ二ティーと神に仕える人であること」と認識しているという。
パール・大宮さん
東サンゲーブルバレー日系コミュニティーセンター(ESGVJCC)の専務理事としてプログラムやサービス業務、会計すべての管理に携わっており会員1500家族に対し、1年を通じて毎週25の異なったプログラムの管理を行い、その中には太鼓、武芸、日本語教室、コンピューター教室、高齢者向きプログラムなどがある。この他コミュニティーのために毎年12の大きな催しを開催、カリフォルニア州上院議員エッド・ヘルナンデス博士と共同で行う家族健康診断の日も含まれている。
2006年以来専務理事として4人の部下を指導するとともにESGVJCC理事会に適宜な助言を行い、また1年を通して12人の実習生やボランテイアの監督も行う。またウエストコビナ市と緊密な連携の下、毎年の桜祭りや姉妹都市学生交換プログラムの監督も行っている。
専務理事としてESGVJCCの歴史の中で最大の150万ドルの運営資金募集を行い、高齢者プログラム、日本語クラス、武道クラス、高齢者保養や教育プログラムのための教室設置を進め、高い指導力を発揮し4年後には実現させた。
ESGVJCCの長期計画の一部として大宮さんは幼児託児所建設の開発を進めている。2016年までに実現させる計画を立て、現在ライセンスの取得と認可のために訓練を受けている。
02年から04年まで日本外務省のジェットプログラムに応募して日本で英語を教えた。帰国後はジェットプログラムの同窓会の理事となり会長を務めた。
ラプエンタのビショップ・アマット高校を卒業しその後日本語と経済学で学士号を取得。またカルポリ・ポモナ大学で社会学教員の資格を取った。UCLA在学中には、日系学生ユニオンの会員となり会長を務めた。また校内で水泳部のライフガードなども務めた。
現在は日系コミュニティー連合に理事として参加して、コミュニティー助言プログラムの一員として活動する。
ナンシー・高山さん
高山さんが、ボランティアの仕事に興味を持ち始めたのは、ハワイで難聴の障害者を支援する団体に奉仕したことに始まる。ある時、会話を交わそうとすると、手話で書かれたカードを渡された。難聴の人々と交流するために手話を学びまもなく難聴障害者の支援者となった。公立の小学校で、難聴障害者について説明し、弱い者いじめしたり、恐れたりしないよう教えた。これはコミュニティーに対する自分なりの恩返しの始まりだった。
ハワイを去って自分の家族とともに過ごすためにホームタウンであるサンファナンドバレーに1990年代に帰ってきた。幾人かの老齢の家族や友達に先立たれ、地元にはかけがえのない家族や日系人の歴史と伝統があることに気づいた。若い世代の人々との交流を通して歴史を記録することを目的に父母の友人やコミュニティーセンターの2世、そして加州立大ノースリッジ校の学生たちとの交流を始めた。サンファナンドバレーの日本人や日系人のさまざまな苦労と犠牲の歴史を記録する仕事の継続を願う。
2000年の初めごろ、高山さんはサンファナンドバレー日系市民協会(SFVJCLA)や同コミュニティーセンター(SFVJCC)の理事として奉仕し始めた。これら2団体で奉仕することで、コミュニティーのために尽くすことの意義をより深く意識するようになった。コミュニティーの各種行事や文化を守る教育プログラムなどを組織的に運営することの大切さを知るようになった。
04年にはSFVJCLAの会長に選出され同時に日系市民協会太平洋沿岸西南地区(PSWD)理事に就任した。
日系アメリカ人の幾世代にもわたる歴史を映画や写真に保存するために高山さんはPSWDに働きかけ、その協力のもと「Kataru Rekishi(語る歴史)」を創設しSFVに設置した。
高山さんは合唱団「グレイトフル・クレイン・アンサンブル」のメンバーとしてもその奉仕精神で、日系人の歴史的伝統の啓蒙を2010年以来行っている。特殊な演劇グループであるこの非営利団体の使命を、公衆に日系米国人の苦難に満ちた歴史と貢献を演劇を通して伝えることだとしている。
高山さんは、SFVJCLAの会長を5年間そして、同時にPSWDの理事を兼務したが、2012年にPSWDJCLAだけに絞って勤めることを決めた。仕事の範囲はSFVからより広くなり、PSWDの管轄範囲の南加と米国の南西地域に広がり日系人の市民権を擁護することとなった。
高山さんは、PSWDの地域プログラムの熱心な支持者であり、地域指導者たちと連携の上でプログラムを実行し、夏季指導者育成プログラムや日系LGBTQイニシアチブの始めての試みであった2014年の「Okaeri(お帰り)」プログラムなどに力を入れた。
最近は、小東京ビジネス協会や小東京協議会の会員となり日系コミュニティーの伝統を守り、合わせて同地域における最も古い日本人町の環境保全に努めている。
最近はまた、ロサンゼルス郡の歴史を語る場として指定されたツナキャニオン収容所保存運動の熱心な支持者でもある。ツナキャニオン委員会は、非営利財団法人を設立してツナキャニオン収容所を歴史的教育施設にする運動を推進する。高山さんは、母方の祖父がテキサスのクリスタル市に移送される前に、同収容所に入れられていたことを知っていっそう興味を持つようになったという。
ツナキャニオン収容所、ツールレイク収容所、そして両親が収容中に出会ったマンザナ収容所など、日系人の苦難の歴史を風化させることなく伝えていくことが今日、高山さんの日系コミュ二ティーに対する恩返しの原点になっている。日系人の過去の苦難の歴史とともに、社会貢献の記録を保存する高山さんの多様な働きと指導力は、われわれの地域社会のみならず米国全土においても大きな助けとなっている。