鹿児島中央駅前の階段を降りると、『若き薩摩の群像』という銅像が迎えてくれました。これは初代文部大臣になった森有礼や後に米国のブドウ王と呼ばれた長沢鼎など、江戸時代の末期に薩摩藩から国禁を犯して海外留学を果たした19名の若者たちを称える像として作られたものです。さらに鴨池港から錦江湾を渡るフェリーに乗り、桜島を超えて大隅半島側に渡り、そこから内陸に1時間ほど車で走ると鹿屋航空基地資料館があります。かつてこの地を飛び立った零戦の展示がありますが、知られざる特攻機である『桜花(おうか)』の模型も展示してあります。「それは多くの若者たちの命を奪った兵器。その名は桜花…プロペラも、車輪も、燃料も積んでいない。敵艦に向かって突撃するだけの小型特攻機。一度乗れば、二度と生きて戻れず、『人間爆弾』と呼ばれた。(映画『サクラ花』より)」
 終戦の直前、その桜花を搭載して鹿屋基地を飛び立つ一式陸攻機で激戦の地の沖縄に向かう乗組員の若者たちの葛藤を描いた『サクラ花~桜花最期の特攻~』が映画化されました。映画では桜花に乗り込む乗組員に上官がこのように言います。「お前は死ぬのが怖いか。いいか、咲いてから散るとは思うな。散ってから咲くんだ」と。戦時下ではあるといえ、あまりにもやるせない。「お国のため」という不透明な言葉によって、多くの若者が咲くことなく命を散らした歴史を、私たちは見つめるべきだと思います。
 映画の中では隊員が、平和な日常を思い出すシーンで「私の青空」を唄います。1928年にジーン・オースティンの歌で大ヒットした米国の歌です。日本では、同時期に堀内敬三が日本語の歌詞をつけ、浅草オペラの二村定一や榎本健一によって唄い継がれました。
 「夕暮れに仰ぎ見る 輝く青空 日暮れて辿るは わが家の細道 せまいながらも 楽しい我家 愛の灯影の さすところ 恋しい家こそ 私の青空」
 桜花の実物の数台は米国本土に渡り、カリフォルニアでは現在チノに展示されています。日本では桜の蕾がふくらみはじめ、平和と悲劇は紙一重だと感じさせる「私の青空」のモダンで哀しいメロディが、私の頭の中をリフレインしました。【朝倉巨瑞】

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