社の蔵書の中に「ララ記念誌」という布張りの本を見付けた。昭和27年厚生省発行とある。
第2次大戦後、飢餓と貧困で苦しむ多くの日本人を救った米国からの救援物資「ララ」。
「ララ」の正式名称は『Licensed Agencies for Relief in Asia』(アジア救援公認団体)、1946年に米国大統領が公認した民間団体だ。本書は、ララが「いつどうして始まったか、どうもハッキリしない」という。戦後「アジアの戦禍はとてもひどいそうだ。気の毒なことだ」という考えが人々の間に強まり、この機運にまず、YMCAなどや主に米国キリスト教系奉仕団体13団体が参加し、これにカナダの宗教団体が加わり、さらに全米の在留邦人や日系人が合流したという。
ララ支援物資を積んだ第一船が横浜に入港したのは、終戦の翌年の昭和21年11月。その後27年3月までの6年間に送られたララ救援物資の総数量は1万6700余トン、金額にして400億円をはるかに超えた。内容はミルク類、穀類、缶詰、油などの食糧をはじめ衣類、医薬品、靴、石鹸その他日常生活に必要欠くことの出来ないさまざまな物資で、この他に乳牛や山羊も含まれていたという。
数字やグラフを使い事細かに記録されているが、写真で見るのが一目瞭然だ。あばら骨が浮き出た子どもたちの体が、4カ月後にはふっくらと子供らしくなり、笑顔で写真に納まっている。もっとすごいのは、当然体格の差があり、洋服や靴などはそのままでは用を成さない。26センチもあるような流行のヒール靴が、見事に22センチくらいの日本人用にリメイクされている。日本人の器用さに驚くばかりである。
配分は第一に公平を期する事とし、律義な日本人像が見えてくる。(戦後混乱期にあって略奪などもなかった)主として社会福祉施設を重点に対象は収容施設以外の一般生活困窮者、未亡人、引揚者、学生などに逐次、拡大して配られ、1千数百万人が恩恵に浴したという。親日家の3人のララ代表以下大勢が、地方での配布状況や子供たちの希望を聞き本国に伝えるなどの労をとり、適正で効果的な配布につながったと感謝を述べてもいる。
日本の目覚ましい戦後復興には、この1千数百万人の命の再生も寄与していたのではなかったかと、ふと、思った。【中島千絵】