都バンドでサックスを演奏する菊地さん(前列左から2人目)
 南加日系社会においてカラオケや日舞、民謡など大衆、伝統の両面で日本の芸能文化の発展に大きな貢献を果たした菊地日出男さんが2日、リンカーンパークの介護施設ケイアイ・ロサンゼルスで亡くなった。97歳だった。長男のスティーブさんによると、死因は新型コロナウイルスの感染症。葬儀は未定。また1人、日系社会の名物男がこの世を去った。

腹話術を披露する菊地さん
 1923年1月1日、カリフォルニア州ストックトン生まれ。元旦の日の出時刻に生まれたため、日出男と命名されたという。27年に神奈川県小田原市に移り住んで幼少期を過ごし18歳の時に帰米した。マンザナ強制収容所に入り、ツールレイク、テキサス州クリスタルシティーの収容所に移送された。
 出所後、48年に結婚した。51年からロサンゼルスの2カ所でマーケットを経営しながら日系コミュニティーとも積極的にかかわり、特に舞踊、音楽などの文化芸能活動に力を注ぎ、優れたリーダーシップを発揮。南加カラオケ連盟、日本民謡協会、大正クラブ、楽唱会などの会長を務めた。
 「びっくり箱の日出ちゃん」と呼ばれるほどに、司会、歌謡曲、漫談、浪曲、都々逸、寸劇、腹話術、楽器演奏と、いくつもの引き出しを持つ幅広い特技。自ら「諸芸混ぜ飯」芸と称し、人々を笑わせた。小東京バンド、双葉バンド、暁バンド、都バンドなどに属し、日本から来た歌手、雪村いづみ、島倉千代子、小畑実などのバックバンドで演奏した。
 日本の芸能界との太いつながりを持っていた。いつの間にか「ロサンゼルスに行くなら、菊地さんを訪ねろ。いろいろ世話をしてくれる」と評判だったという。食事、ショッピング、ラスベガス旅行など、これまで菊地さんに世話になった芸能人は数えきれないほどだ。大切に保管している写真には、芸能人と一緒に写った笑顔があふれている。そのそうそうたる顔ぶれは、京マチ子、東海林太郎、藤山一郎、司葉子、淡谷のり子、伴淳三郎、森繁久弥、田畑義夫、雪村いづみ、古賀政男、猪股公章、朝丘雪路、石原裕次郎、ザ・ピーナツ、
二世週祭の音頭委員長を務めた菊地さん(前列右)は、藤間勘須磨師(左隣)ら日舞の各社中の師匠から絶大な信頼を得ていた
奥村チヨ、園マリ、北島三郎、森進一、ぴんから兄弟、藤圭子、五木ひろし、辺見マリ、倍賞千恵子、梓みちよ、由紀さおり、美川憲一、水前寺清子、天童よしみ、神野美伽など。
 祭好きで二世週祭をスタッフとして盛り上げた。音頭委員長を71年から、勇退した2009年までの約40年間務めた。同祭の米国版紅白歌合戦を89年から27回主催し、収益の中から二世週財団に寄付し続けた。10年の第70回では、南加の日系社会発展のために尽力したことが評価されグランドマーシャルに選ばれた。授賞式の謝辞では「二世ウィークにかかわることで、若さを保つことができる。だからこれからも頑張りたい」と意気込み、人一倍の強い情熱を示した。
 菊地さんに育てられた1人で、二世週祭の紅白に25回連続出場した福島広志さんは「カラオケ界では誰でも知っている偉大な人。日系コミュニティーとリトル東京の活性化のために自分の身を犠牲にして頑張って活躍してくれた」と恩人の死を悼んだ。紅白に10回連続で出た時に菊地さんから初のトリを任され「頼んだよ。頑張って」と、励まされ大役に臨んだことが忘れられないという。
2010年に二世週祭のグランドマーシャルに選ばれ、孫3人とオープンカーに乗ってパレードする菊地さん
 ひまわりカラオケ同好会代表の宇尾野ゆみさんは、菊地さんが大正クラブのカラオケ部の部長をしていた時に歌唱指導を頼まれてからの付き合いといい「50年以上知っていて、菊地さんは好きなことをして社会貢献ができていい人生を送った。97歳まで生きて大往生だと思う。お疲れさまとありがとうを言いたい」と語った。ひまわりカラオケは今年創設30周年を迎え、秋の記念公演に向けて準備を進めており「菊地さんがずっとやってきたことを受け継がなければいけない」と、意欲を示している。
 自身を「典型的な帰米二世」と紹介していた菊地さん。日本食と日本文化、日系社会と小東京を愛し、晩年は何度も舞台に上がったアラタニ劇場の近くで暮らしていた。
強制収容所で仲間と写真に納まる菊地さん(前列左端)

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