出所後、48年に結婚した。51年からロサンゼルスの2カ所でマーケットを経営しながら日系コミュニティーとも積極的にかかわり、特に舞踊、音楽などの文化芸能活動に力を注ぎ、優れたリーダーシップを発揮。南加カラオケ連盟、日本民謡協会、大正クラブ、楽唱会などの会長を務めた。
「びっくり箱の日出ちゃん」と呼ばれるほどに、司会、歌謡曲、漫談、浪曲、都々逸、寸劇、腹話術、楽器演奏と、いくつもの引き出しを持つ幅広い特技。自ら「諸芸混ぜ飯」芸と称し、人々を笑わせた。小東京バンド、双葉バンド、暁バンド、都バンドなどに属し、日本から来た歌手、雪村いづみ、島倉千代子、小畑実などのバックバンドで演奏した。
日本の芸能界との太いつながりを持っていた。いつの間にか「ロサンゼルスに行くなら、菊地さんを訪ねろ。いろいろ世話をしてくれる」と評判だったという。食事、ショッピング、ラスベガス旅行など、これまで菊地さんに世話になった芸能人は数えきれないほどだ。大切に保管している写真には、芸能人と一緒に写った笑顔があふれている。そのそうそうたる顔ぶれは、京マチ子、東海林太郎、藤山一郎、司葉子、淡谷のり子、伴淳三郎、森繁久弥、田畑義夫、雪村いづみ、古賀政男、猪股公章、朝丘雪路、石原裕次郎、ザ・ピーナツ、
祭好きで二世週祭をスタッフとして盛り上げた。音頭委員長を71年から、勇退した2009年までの約40年間務めた。同祭の米国版紅白歌合戦を89年から27回主催し、収益の中から二世週財団に寄付し続けた。10年の第70回では、南加の日系社会発展のために尽力したことが評価されグランドマーシャルに選ばれた。授賞式の謝辞では「二世ウィークにかかわることで、若さを保つことができる。だからこれからも頑張りたい」と意気込み、人一倍の強い情熱を示した。
菊地さんに育てられた1人で、二世週祭の紅白に25回連続出場した福島広志さんは「カラオケ界では誰でも知っている偉大な人。日系コミュニティーとリトル東京の活性化のために自分の身を犠牲にして頑張って活躍してくれた」と恩人の死を悼んだ。紅白に10回連続で出た時に菊地さんから初のトリを任され「頼んだよ。頑張って」と、励まされ大役に臨んだことが忘れられないという。
自身を「典型的な帰米二世」と紹介していた菊地さん。日本食と日本文化、日系社会と小東京を愛し、晩年は何度も舞台に上がったアラタニ劇場の近くで暮らしていた。