1925年に入ってからぽつぽつと邦字新聞にも日本人のラジオ出演の話題が掲載されるようになった。この頃の紙面ではラジオ(ラヂオ、ラデオ)や放送局という言葉も使用されているものの、まだその使い方が定着しておらず、富尾百貨店主の次女米子がラジオ出演した際には、「アントニーの無線電信所の放送口に立って米子さんは其の得意のヴァイ〔オ〕リンをやる」(羅府新報1925年2月20日)という面白い表現がされている。ちなみに放送局はコールサインよりも運営者名の方がピンとくる時代で、「アントニーの無線電信所」
その他1920年代には巽清次郎(テナー)、宮内四郎(バリトン)、石神たかね(ソプラノ)、井上協子(ソプラノ)、杉町みよし(ソプラノ)、薩摩丈夫(テナー)、内藤ちかえ(ハープ)、綿貫誉(ハーモニカ)などの音楽家がラジオに出演し、ロサンゼルスの空にそのメロディーを届けた。
珍しいところでは、観世流能楽師の泉泰一郎の謡曲放送がある。泉は1927年7月にロサンゼルスの南加謡曲会の招きで渡米し、1年間の予定で在留邦人に対して謡曲や仕舞などの指導に当たっていた。その間、2回にわたりラジオに出演した。1927年8月にKFWB(ワーナー・ブラザーズ放送局)で「楊貴妃」を謡った時には、イタリアのオペラ歌手カルーソーに比せられ大絶賛を浴びたという。また、1929年3月から西海岸各地で公演を行っていた筑前琵琶の高倉旭子が日米興行と帝国貿易商会のアレンジにより、「湖水渡」と「蓬莱山」を同年6月にKFWBから放送したのも快挙であった。
一方で、日本語のメッセージが初めて流されたのは宗教の分野であった。1935年11月12日、本派本願寺法主大谷尊由師が行ったKHJでの講演である。仏教の神髄を多くの人に聴いてもらうため、そのメッセージは英語にも通訳された。1929年6月には3回にわたり今井革牧師がKTBI(聖書会館放送局)に出演した。今井牧師はもともと真言宗の住職であったが、病気療養中にキリストの教えに接し、キリスト教へ改宗した経歴の持ち主で、その著書「私の改宗の動機」に沿った説教を行った。(日本時間②に続く)
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