大正14年(1925年)に営業を再開したとされる当時の三河屋の店内
 「2021年6月29日をもって、三河屋は閉店します」。日本村の三河屋の店頭に貼られていた告知文は、111年の歴史を持つ小東京の和菓子屋の最後を飾るにはあまりにも素っ気なかった。なぜ、唯一の店舗が閉店したのか。その理由を、時代の流れや再開発による住民の変化などと指摘する者もいるが、実際はビジネスの成功の犠牲になったのかもしれない。

 最盛期の三河屋は、まるでシンデレラストーリーのようだった。甘味処は小さな工場に、そしてそれは大きな工場に変化を遂げ、米国人のアイスクリームの定義や食べ方を変えたほどだった。
 フランセス・ハシモト・フリードマンさんは、教師を辞めた後、家業のまんじゅう屋を引き継ぎ、その後、夫のジョエルさんと共に生産の近代化に力を入れ、南カリフォルニアやハワイに店舗を展開していく。フランセスさんの母はる・ハシモトさんは、102歳まで小東京の店に立ち、日本の伝統的な味を若い世代に伝えることを喜びに感じていたという。

2008年にジェラートの販売を開始し、キャンペーンで来店客に振る舞ったフランセスさん
 餅の中にアイスクリームを入れるというアイデアを思い付いたのはジョエルさんだった。その後、フランセスさんが商品を開発し、10年には、餅アイスは、トレーダー・ジョーズ、アルバートソン、ブリストル・ファーム、ラルフス、ゲルソンズ、パビリオンズ、99ランチマーケットなどの全米チェーンで注目されるようになる。アーツ・ディストリクトの工場は手狭となり、その後、ロサンゼルス・ダウンタウンの南に位置するバーノンに、10万3000平方フィートの工場を建設した。ブランド名の変更を迫られることもたびたびあったが、フランセスさんは「Mikawaya」という名前を残すことにこだわっていたという。
 12年にフランセスさんが逝去し、遺族は大きな悲しみに打ちひしがれたが、三河屋はその後もアイスクリームの生産に力を入れ成長をしていった。
 大きな転機が訪れたのは、15年7月。エルセグンドを拠点とするプライベート・エクイティ会社「センチュリー・パーク・キャピタル・パートナーズ」が三河屋を買収し、「モチ・アイスクリーム・カンパニー(ブランド名マイ/モー=My/Mo)を立ち上げた。その後、「マイ/モー」は、北米最大のブランドメーカーとして、模倣するメーカーが後を絶たない状況下にもかかわらず、全米2万店以上の小売店で餅アイスを販売。同社のマネージングパートナーであるマーティン・サラファ氏によると、同ブランドは、19年に、24億ドル規模のフローズン・ノベルティ(アイスクリームサンドイッチやジュースバーなどの氷菓)市場全体において、単独で15%の成長を遂げたという。
 20年1月に「モチ・アイスクリーム・カンパニー」は、レイクビュー・キャピタル社に売却され、同社の投資ディレクターであるジェイク・フリーマン氏は、大規模な資本を投入して、世界をけん引する餅菓子ブランドのプラットフォームを構築するという計画を発表している。
 小東京の三河屋閉店のニュースを聞いて多くの人がそうだったように、フランセスさんも草葉の陰で驚き嘆いているに違いない。しかしながら、餅の中にアイスクリームを入れるという小さなアイデアは人々の生活や気持ちに大きな影響を与えた。小東京は新しいものを生み出せる場所であり、それを見抜いて実現したフランセスさんには先見の明があったと言える。【エレン・エンドウ、訳=砂岡泉】
母はるさんの遺影を見せるフランセスさん

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